時が止まっていた。
 開いた扉の前で動けなくなった猫一匹と、部屋の中から彼女を見つめる二人の男は、数秒の間瞬きすらせず向かい合っていた。

「……

 その膠着状態が解けたのは、黒いローブの男の後ろから進み出るように、ルーピンが猫に向かって一歩近づいたからだった。
 セブルスは、そんな彼の行動にぎょっとして身を引いた。記憶の中にある「」という名前は、確かこの男の受け持っていた女子生徒のものだ。けれど、今自分の目の前には、汚らしい一匹の猫しかいない。
 ルーピンがこの猫に「」という名前をつけているのか、はたまた、という名の女子生徒はもう自分には見えない存在になってしまったのか。思いついたそのどちらの可能性も受け入れがたいものだったので、セブルスは口をつぐんだ。

、だね?」
 客人の動揺などそっちのけで、ルーピンはもう一度名前を呼んで戸口に近づいた。
 問いかけにしては、やけに確信的だった。
「え……せ、先生?」
 部屋の中から進み出てきたルーピンに、はハッと我に返った。
 逃げ回っていた相手が不意に目の前に現れた恐怖に思考が停止してしまっていたが、よく考えたらスネイプ教授が部屋にいるということは、部屋の主であるルーピン先生も戻ってきているかもしれないということで。ルーピン先生がいるなら、実験の材料にされることは阻止してもらえるだろう。
 何も言葉を発していないのに、先生は自分を分かってくれた。
 そのことだけで、は元気を取り戻せそうな気がした。

「ルーピン先生……あの」
 ごめんなさい、と言いかけたは、ふっと身体が持ち上がったのにびっくりして危うく舌を噛みそうになった。
「!?」
 何が起こっているのか把握できなかったのは一瞬で、すぐにルーピン先生に抱きかかえられたのだと分かった。しかもそれだけではなくて、顔全体がぎゅっと彼のシャツにくっつけられて呼吸困難に陥りそうなくらい、強く抱きしめられている。
 部屋が暖かいからか、先生の体温が温かいからか、身体が優しいぬくもりに包まれるのを感じて、は安心して力が抜けていくのを感じた。
、……よかった」
 よかった、と噛みしめるように呟いたルーピン先生は、腕の力をさらに強めた。猫の埃まみれの毛並みに顔をうずめるようにして、ぎゅっと抱え込む。それがまるで恋人に対する抱擁のようで、の心臓はさっきとは違った意味でドキドキしてきた。
(……そんなはず、ないのに)
 先生が今まで一人の女性として自分を見てくれたことなどあっただろうか、とは自問する。答えはすぐに出た。は、先生にとっては自分がただの教え子でしかないということをきちんと理解していたし、そうでなくなるためにはどうすればいいか、いつも考えていたから。
(だから、勘違いしたらいけない)
 些細なことでも浮上しかける、このどうしようもない心。それを何とか地上につなぎ止めて、平静さを装うことだけはうまくなった。
 けれど、こんな風に大切にされていることを実感したらすぐ自惚れてしまいそうになるのは、人間であれば当然のことじゃないか。ほとんど開き直りのように考えて、少し空しくなった。
 今の自分は人間ですらないのだ。
 もし人間の姿をしていたなら、もっと緊張していただろうな、とは思う。少なくとも、一歩引いてこちらを見ているスネイプ教授の視線を冷静に感じ取ることは難しかっただろう。

「せ……先生……っ」
 そろそろ本格的に息をさせてもらえない気配を察知して、腕の中の猫はじたばたともがく。
 やっと猫が窒息死しかけていることに気付いたルーピンは、慌てて身体を離した。



「――それで。どうして、吾輩がここにいなければならないのか、説明して頂こうか」

 セブルス・スネイプ教授は、薄い唇の端を僅かに持ち上げて、不吉な笑みを浮かべた。
 反対側で向かい合うようにソファに座っているルーピン先生は、苦笑いのような微笑みのような、何とも言えない表情で傍らに座る猫をちらりと見下ろした。視線を感じたが見返したときには、もう先生は彼女を見てはいなかったけれど。
「セブルス、あなたは薬学に関しては特殊な才能をお持ちだ」
 ぴくり、と教授の左足が収まっている黒い革靴が小さく反応した。ちょうど目線の先にあったものが揺れたので、はちょっと首を傾けてその靴の持ち主を見上げる。
 途端に、自分の表情が強張ったのがはっきりと分かった。
(……うわあ……)
 ルーピン先生、よく耐えられるな。の頭には、スネイプ教授が今と同じ顔をして教室で生徒を睨みつけている様がありありと想像できた。表情だけでひとを恐怖させるのに、はや慣れきってしまっているような。
「何が言いたいのか、さっぱり分からん」
 分かりたくない何も聞きたくない、といった顔で、スネイプ教授はなおも正面のルーピン先生を睨みつけている。その割には口調がそれほど荒々しくはないようにには聞こえたけれど、猫になったせいで耳まで人間の時とは違ってしまったのだろうか。

「手っ取り早く言えば、だけど」
 先生はそう言って一度目を閉じ、また開いて続けた。まっすぐに教授を見据えるその視線は、真剣そのものだ。
 は、自分のことでルーピン先生ががんばってくれていると分かってはいても、ドキリと胸が高鳴るのを抑えられなかった。
 大まかな経緯をから聞いたルーピン先生は、関わるまいと帰ろうとしたスネイプ教授を引きとめ、再び自室に招いたのだった。

の状態を調べて、元に戻る薬を煎じて欲しいんだよ」
 一つひとつの言葉をゆっくりと発音して、ルーピン先生は告げた。言葉の端々から、意味が分からないなんて言わせないという固い意思がにじみ出ている。
「……吾輩が出張らずとも、ことアニメーガスに関しては並々ならぬ知識と経験をお持ちの教師なら、この猫を元に戻すことなど造作もなかろう」
 彼は無表情を保ったまま、長い台詞を一気に言い放った。
 うまく意味が呑み込めなかった私は、助けを求めるように先生の顔を見上げた。彼はゆっくりと左右に首を振って、机の上に置いてあった本に視線を落とした。
「自分でできるのなら、とっくにしているよ」
 机の上にある古びた分厚い本には、どうやらアニメーガスについて詳しいことが書かれているらしい。

 恐らく、が動物もどきになってしまったらしいと感づいた先生は、自分の蔵書の中から解決策を見いだせないかと探してくれていたらしい。しかし、うまい方法は見つからなかった、と。
 もしかしたら、先生はアニメーガスの専門家でもあるのかもしれない。この学校は教師の数が少ないという理由で自分の専門以外の科目も教えなければならないみたいだから、気がつかなかったけれど。

「彼ら三人は自分自身で元の姿に戻る方法を身につけていたし、アニメーガスになってしまったものを人間に戻す魔法はどこにも載っていない。大抵の本には、自然に戻るのを待つしかないと書いてあるんだ」
「ならば待つがよかろう」
 スネイプ教授はにべもなくそう言い放ったが、ルーピン先生は苦い顔を崩さなかった。
「そういうわけにもいかないんだよ。彼女は卒業してから元の養い親の家に戻っているんだ。を可愛がっている彼が、このことを知ったら……」
 それに、と呟くように言って、先生はを見た。
「動物もどきになってから、もう大分経っているはずだ。まだ自然に戻らないのなら、これからしばらくはこのままという可能性も大きい。もしかしたら、いったん戻ることができても、今後何かの拍子にまた変身するようになるかもしれない」
 その時のために、先生はスネイプ教授に人間に戻る薬を作ってほしいと頼みこんでいるということか。
 先生が口にするまでその可能性については考えもしなかったけれど、もし後遺症のようなものが残って頻繁に猫に変わってしまうようなことがあれば、とても困る。やっと給仕の仕事にも慣れてきたところなのに、店に出るのを止めざるを得なくなる。いきなり客の前で猫に変身するようなウェイトレスが、マグルの店で働けるはずがないから。
 しかし、ルーピン先生の言う「彼ら三人」とはいったい誰を指しているのだろう。
(二人の共通の知り合いか……その本に載っている人のことかな)
 アニメーガスは魔法界でも数えるほどしかいないと習ったことがある。ルーピン先生は恐らくアニメーガスの専門家だから、複数のアニメーガスを知っていても不思議はないけれど、スネイプ教授は魔法薬学が専門のはず。それでも話が通じているということは、きっと有名な人に違いない。
 自分を納得させて、どこか引っ掛かるのは気のせいだと思うことにした。

「もちろん材料費はこちらが負担する。セブルス、貴方ほどの才能は他の誰も持っていない」
 先生はもう、「彼ら三人」と言ったときのどこか懐かしむような表情はしていなかった。
 彼の言葉を聞いたスネイプ教授は、眉をぴくりと持ち上げて唇をいっそう引き結んだ。
「あの校長や……変身術に長けた教員はお仲間にもいるだろう」
「……できれば、あまり事を大きくしたくないんだ」
 教授は、口元にぞっとするような冷笑を浮かべた。
「動物もどきに関しては、さぞ負い目を感じていることだろうな」

 また、だ。
 は、スネイプ教授の言葉を聞いてモヤモヤしている自分に気がついていた。そしてその気持ちの正体も、原因にさえも、何となく見当がついていた。
 こんなこと考えている場合じゃないのに。深刻な状況にあるのは自分自身なのに。そう思うのとは裏腹に、モヤモヤはなかなか収まってくれない。
(……嫉妬なんて、してる場合じゃない)
 と先生の付き合いなどここ数年のことなのだから、知らないことがあるのは当然のことだ。知らないことは、知っていけばいい。今勝手に傷付いているのは、きっとこの「知らなかったこと」が先生にとってとても重大なことだったから。

 ルーピン先生は、しばらく黙りこんだあと、微笑みを浮かべて教授に返した。
「……それは、引き受けてくれる、と受け取ってもいいかい?」