セブルス・スネイプ教授の表情といえば、無表情としかめっ面くらいしか知らなかったは、この数十分で彼についての認識をかなり改めなければならなかった。あまり好ましい印象は抱けなかったけれど、立ち去る直前、彼は確かに口角を上げていたのだ。

 教授が「明後日までに元に戻らなかったら部屋にこい」という内容のことを回りくどく嫌みたっぷりに言ったときには、思わず目を丸くした。あんなに渋っていたのにいったい何がきっかけで頼みを引き受ける気になったのか、会話を聞いているにも全く分からなかった。
 自分の知らないことは山ほどある、と改めて感じたばかりだったので、は不安になって、教授を見送ったあと扉の前で立ったまま一人考え込んでいる先生にそろそろと近づいた。
「先生。いいんですか?」
「……
 ふっと表情を和らげて猫を抱きあげるルーピン先生の顔からは、何も読み取れない。ただ、とても大事にされているということは、確かに感じられるのだけれど。
 至近距離にドキドキしながら、それでも不安が大きくて、は間近の先生の顔を見上げて問うた。
「……もしかして、私のせいでとても大きな借りを作ってしまったのではないですか?」
「借り? ああ、スネイプ教授のことかい?」
 うーん、と苦笑しながら、先生は部屋を横切ってソファに猫を置き、その隣に腰を下ろした。
 ちらりと視界に入った窓の外を見て、もうすっかり夜になってしまったことに気がつく。
は、心配する必要はないよ。私が自分から頼んだことだし」
「……でも」
「私の部屋でがアニメーガスになってしまったのなら、原因は私にある可能性が高い。それに、うちの大事な生徒が困っていたら、私には助ける義務がある」
 そこまで一気に言ってから、先生はゆっくりとを抱きあげて膝に乗せた。
「――っていうのは、建前なんだけれどね」
「え?」
「本当は、彼に借りを作ってどうなるかとか、自分の責任とか、全然考えてなかったよ。ただが心配だっただけで」
 自分でもびっくりしているけど、と付け足して先生は笑った。
「正直に言えば今もすごく心配だけどね。永遠にこのままというわけではなくても、さっき言ったような後遺症が残る可能性はやっぱり高い。でも……、とりあえずは無事でよかった」
 先生はそう言って、の頭を撫でた。

 それだけで。たったそれだけで、さっきまで感じていたスネイプ教授へのもやもやした気持ちや、今の状況への不安が、すうっと落ち着いていくのが分かる。
(……そうだ)
 先生がいれば大丈夫だ。
 自分を変えてくれた人。大切に、思っている人。その人が自分を助けようとしてくれているのだから、きっと私は、どんなことでも、何があっても、ちゃんと受け止められる。
 心は、もう揺らいではいなかった。

「それはともかく」
「?」
「……チョコレートを食べてすぐ、異変が起こったっていうのは本当なんだね?」
 が頷くと、ルーピン先生は難しい顔をして黙り込んだ。
 ずっと見上げていて首が疲れてきたので、は目線をテーブルの上の本に移しながら言った。
「ご友人に頂いたと仰ってましたよね」
「……食べたんだ。私も、あのチョコレートを」
「えっ?」
 予想もしなかった言葉が先生の口から飛び出したので、驚いて思わずまた首を持ち上げた。難しい顔は相変わらずだけれど、ルーピン先生の視線はさっきまでと違って、窓の外へと向けられていた。
「同じものを食べたのに、変身しなかった……?」
 それじゃあ、猫になった原因はチョコレートではなかったということになる。が呆然と呟くのと、先生が徐に立ち上がるのはほとんど同時だった。をしっかり抱きかかえたままで、彼はさっきからじっと見ていた窓の方に歩いて行く。
「先生」
 どうかしましたか、と尋ねる前にルーピン先生は窓の鍵を外して開けた。
 その一瞬の動作の間に、の頭に浮かんだことといえば、もう夜だし窓を開けたら寒くないかな、ということだけで。
 後からよくよく考えれば、原因がチョコレートではないという可能性があるなら自分に直接魔法をかけた人間がまだ近くにいる疑いも拭いきれないということで、先生が窓を開けたのはそれに関係しているんじゃないかと考えるのが正しかったのではないかと思うのだけれど。

 果たして、窓から軽く身を乗り出してすぐ下の地面を見下ろした先生といえば、険しかった表情を一気に緩め、呆れ顔で、
「……やっぱり」
と呟いただけだった。
 一体何があるのかと、先生の顔ばかり見ていたは同じように下を見下ろそうとしたが、腕から落っこちそうになって慌てた先生に引き戻された。
 窓の桟に座らされたは、先生の自分に触れる手つきが猫を扱うにしてはあまりにも優しいものだったので、もう何に対してドキドキしているのか自分でも分からないような有様だった。
(……自分のバカ)
 多分、恋をしている女の子の心情としては大きく外していないのだろうけれど、先生に迷惑をかけている今の状況では、そんな気持ちを抱いてしまうことへの罪悪感がなんとなくあって居心地が悪い。
 かといって、今は先生の力を借りずには何もできないのだ。

 ルーピン先生は外に腕を伸ばして何かをひっつかみ、窓を閉め鍵をかけた。
 先生の手に掴まれたその物体を見て、は今まで考えていたことをきれいさっぱい忘れてしまった。
「へ……ふくろう?」
「セブルスがあんなに怒っていた理由が分かったよ」
 とほほ、とかやれやれ、という感じだ。何がって、先生の声音がだけれど。
 じっくり見てみると、どうやら眠りこけているらしいその茶ふくろうは、足首に手紙らしき紙をくくりつけられている。この部屋の窓の外にいたということは――
「教授から先生宛ての手紙を届けにきたんでしょうか」
「そのようだね。……どうやら、年寄りのふくろうにはこの長い距離は辛かったみたいだけど」
 言いながら、彼は眠っているふくろうを起こさないように気をつけながら手紙を取って広げた。
「……彼が怒るのも無理はないな」
 何が書いてあったのか見えなかったが、ルーピン先生は手早くその手紙をたたんで胸ポケットにしまった。
 にしてみれば、自分は何があってもあそこまでの怒りを他人にぶつける度胸はないだろう、と見ていてつい思ってしまうほどのスネイプ教授の怒りが、ルーピン先生に全ての責任があるものとはとても信じられない。
(ああ、でも)
 先生の少し抜けている部分がどうしてもスネイプ教授の気に食わないことだったとしたら、相乗効果で苛々が増幅されてしまうのかもしれない。あの人すごく短気そうだしな……と、はスネイプ教授の眉間に寄った皺を思い出して苦笑いした。
 でも、こうして長く関係が続いているということは、教授も先生に関してある程度は心を開いているということなのだろう。

「とりあえず、今のところは様子を見るしかないね」
「――はい」
 窓際のを見下ろしながら、先生は安心させるように微笑んだ。
 一週間前に学校に戻ってきたときよりは顔色がよくなっているのが分かるけれど、まだまだ本調子ではないだろうに、こうして心配をかけることで彼の疲れを増やしていると思うと胸が痛い。
 一カ月以上学校から離れたりしたら、帰ってきたときには何キロも体重を落としているということに、多分先生は自分でも気がついていないのだろう。
 そうだ、スコーンはどうなっただろう。早く食べさせてあげなければ……
 作りかけのお菓子について尋ねかけたは、見上げた先生の表情が曇っているのを見て口を噤んだ。
 ぱちりと目が合って、それをきっかけに、ルーピン先生は小声でに告げた。
、今晩はドアに近づいてはいけないよ」
「ドア……ですか?」
「というより、オブリオーズかな」
 はあ、と分かったような分からない声を出したは、内心ドキリとしていた。
 まさか先生は、魔法をかけたのはあの獅子だと考えているのだろうか。
 猫でも表情は分かりやすいのか、の疑心を読みとったルーピン先生は軽く小首を傾げて尋ねる。
は、この部屋から出るときに、あのドアを通ったろう?」
「はい。出入り口はあそこだけですし」
「オブリオーズに聞いたとき、誰も通していないと言われたんだよ」
「そんな……」
 部屋を出るとき、時間は短かったけれど、話もしたのに。忘れているということはとても考えられない。
 嘘をつく理由が見当たらない。だからこそ、先生もあのドアノッカーに気をつけておけと言いたいのだろう。

 が頷いたので、先生はにっこり笑って、また腕に抱きかかえた。
「さあ、今日はもう寝よう」
「……すみません」
 多分、今日はここに泊まらせてもらうことになると察した猫が頭を下げると、頭上から笑い声が降ってきた。
「猫になっても、礼儀正しいんだね」
「私は私ですから」
「そうだね。だ」
 でも、とそのあとに続けられた言葉に、は目を瞬かせた。
「それはその通りなんだけど。一緒のベッドで眠るのは、猫だからだよ」
「へ?」
「さすがに人間の姿だったら、一緒に寝るのはまずいから」
「……そう。です、ね」
 ああ、本当に、自分のバカ。
 体中の血が熱い。

 先生、ひとつだけ言っておきたいことがあるんですが。
 そりゃあ先生から見たら、私はただの猫なのでしょう。それは分かります。
 でも私から見たら、あなたはやっぱり私の大好きなルーピン先生なんです。――いつもより少し、大きくなってはいるけれど。

 なんて、まさか、そんなことが言えるはずもなく。
 はなるべくベッドの端っこに陣取って、身体を丸めた。
 明日になったら人間に戻っていますように、とは祈らなかった。