「コンコン」でも「トントン」でもない、「ドカドカ」と言っても大げさでないけたたましいノックの音で、目が覚めた。叩かれているのはドアノッカーだけのはずなのに、自分の耳まで殴りつけられているような衝撃を感じる。
 こんなノックをする人を、ルーピンは一人しか知らなかった。
「うーん……」
 目が覚めるまで自分が寝ていたことに気がつかなかった――という表現はおかしいだろうか。何にしろ記憶の中では、ほんの数瞬前まで、ソファで本のページを繰っていたのだ。
 どれくらい眠っていたのかと壁掛け時計をみると、槍を模した時計の針は夕方も遅い時間を示している。昼寝するなんて久しぶりだ。
(気を張っていたはずなんだけどな……)
 ルーピンは、まだぼんやりしている頭を振った。そうすると、俯いたままの姿勢で眠っていたからか、首のどこかの関節が軽い音をたてた。
 が戻ってきているだろうか、と部屋を見回してみたが、やはり姿は見えず帰ってきた気配も感じられないので、彼はため息をついて肩を落とした。
 開きっ放しの状態で膝に置かれていた本を閉じ、ローテーブルの上に移動させてから、やっと腰を上げた。これ以上扉の外にいる人物を待たせると、冗談ではなくドアを破壊されかねない。
「オブリオーズ、開けてくれ」
 ソファから扉へと足を向けながら、あくまでも命令に忠実に閉ざされている扉に向かって言う。数秒の後、「あいよ」と疲れた様子の低い声が響き、ドアがゆっくりと開いた。

 恐らく自分は激しいノックの音で目が覚めたのだろうと予想はついたので、そこまで長くは待たせていないだろうと思っていたのだが、部屋の前に立つ男の眉間に寄る皺が目に入った瞬間に、そんな考えは吹き飛んでしまった。
「やあ、セブルス。お待たせして悪かったね。さあ入って」
「……」
 不穏な気配を察知したルーピンの柔らかい声音が耳に入っているのかいないのか、相変わらず血色の悪い薄い唇をこれでもかというほど引き結び、男は一度ゆっくりと瞬きをした。その動作に嵐の前の静けさを思わせる押し殺した怒りが感じられて、やはり何とかして彼の心持を鎮めなければならない、とルーピンは人好きのする微笑みを浮かべた。
「外は寒かったろう。温かい紅茶でも淹れよう」
「……必要ない」
 ぎろりと本当に音がしそうなほど鋭い目つきで睨みつけ、セブルスは吐き捨てるように言った。
 「部屋の主のもてなしを受けるのも客の礼儀ではないのか?」と小声で、けれど確実にその客に聞こえるようにぼやいたオブリオーズは、その直後客からの壮絶な殺気を感じ取ったのかぷつりと黙り込んだ。
「とりあえず中に入って、座ってくれ。本当に待たせて悪かったよ。さあ、さあ」
 ルーピンの言葉にひとまず怒りを納めることにしたのか、はたまたそれ以上誘いかける声を聞いていたくなかったのか、いつもと変わらず黒いローブを身にまとった男は彼のあとに従って部屋に入った。しかし、いつでも杖を取り出してルーピンを縄でぐるぐる巻きにしてしまいそうな、彼が機嫌の悪いときにいつもしている険悪な表情は少しも緩む様子がない。
 先程まで自分が眠っていたソファにセブルスが座ったのを確認して、ルーピンは紅茶を淹れるためにキッチンへと向かった。
(……一体どれだけ待たせたんだろう?)
 眠りは浅い方だと思っていたが、年を重ねるにつれて、神経も図太くなっていくものなのだろうか。彼がここまでピリピリしているのは久しぶりに見た。


 ルーピンが湯を沸かしながら首を傾げている間、セブルス・スネイプはぎゅっと固く目を閉じて、自制心をフル稼働させることに集中していた。気を抜けば、このただでさえ統一感のない部屋をめちゃくちゃにしてしまいそうだったからだ。

 ここへ来るたびに、わきあがる怒りを必死で抑えつけている自分には気がついていたが、もはやセブルスにはどうしようもなかった。時間や規則にルーズな者が大嫌いなのはもちろん、過去の因縁や校長からの圧力なども手伝って、彼はルーピンに憎しみに近いものを抱いていた。
 グリフィンドールの奴らなど一生相容れることのない人物だ、と最初から諦めていたとはいえ、その諦めだけで怒りも収められるかというと、まだそこまで彼は大人になりきれてはいなかった。

 しかし、茶を飲まされ世間話に付き合わされる、という普通の人には至って平凡なことが、セブルスにとってはこの部屋の中だけであるということにもまた、ほとんど気がついていなかった。それは彼が校長の命のもと訪れた先々で尽く接待を拒んでいるからでもあり、時々部屋を訪れ合うような親しい間柄の友人を長年作ろうとしなかったせいでもある。
(何故吾輩はここに座っているんだ……?)
 目は閉じたままでこめかみを人差し指の腹で揉み、ありもしない頭痛を宥めながら、セブルスは自問した。
 薬を奴に渡しに来ただけではなかったか。小瓶を一つ手渡すくらい、わざわざ部屋の中に入るまでもないのではないか。
 文句の一つでも言ってやらないと腹の虫が治まらないからだ、と自分に言い聞かせようとして、はたと目を開けた。
 自分なら。
 いつもの自分なら、たまりにたまった苛立ちを人にぶつけるよりも、怒りを押し殺して背を向け、もう関わらないようにすることの方が多かったはずなのに。
(……仕方がないんだ)
 金輪際関わらなくてもいいというのなら、喜んでそうする。しかし、立場上そういうわけにはいかない。だから、今後もかけられるであろう迷惑を少しでも減らすためには、きつく言っておいた方がいい。特にこの部屋の主のような、日頃から注意の足りていなさすぎる奴には厳しく言わなければ、自主的な改善の見込みはないのだから。
 今日も、業を煮やしてこちらから持っていく旨を手紙で伝えたはずなのに、尋ねてみれば不在だ。これまでに何度もこういうことがあったが、そのたびに二度三度と足を運ぶのにもいい加減我慢がならない。満月前で不安定な時期とはいえ、手紙を受け取って意をくみ取るくらいのことができないとは思えない。もしそれさえ無理だというのなら、腑抜けだらけの寮とはいえ、どうして在学中に監督生になれたろうか。
 第一、憤懣やる方ない思いをなんとか抑えて薬を作るだけでも、十分すぎるくらいの譲歩の結果なのだ。その上忘れっぽい患者の元に薬をわざわざ持って来て、罪悪感など毛ほども感じていなさそうな平和な顔を目の前にしても、なお怒りを抑えなければならないなんてあまりにも――

「今日焼いたスコーンなんだけど、ちょっと作りすぎてしまったみたいでね」

 いきなり背後から聞こえた声に、セブルスは驚いて杖を取り出しかけた。
 そして次の瞬間には、考えごとに没頭してしまっていたことへの自己嫌悪と、相手を振り回しているのに気づいてすらいない様子の男への腹立たしさで、さらに眉間に皺を増やした。
「君は、ダージリンは好きだったっけ。今のところこれしかないんだけど」
「……菓子作りに夢中で、ノックが聞こえなかったようだな?」
「え?」
 のんびりとした口調で聞き返すルーピンを、セブルスは泣く子も黙るような険悪な目つきで睨み据えた。
「ノックって、さっきの? いや、実は今まで眠っていたみたいで」
「違う。一度、昼の二時半にここに来た」
 時間まで正確に覚えているなんて律義だな、とちらりと思ったことは顔に出さず、ルーピンは小首を傾げる。
「二時半……ああ、ちょうど紅茶を買いに出ていた頃か。それは悪かった」
「紅茶だと?」
 セブルスは、今まさに口をつけようとしているダージリンのストレートティーをじっとりと見下ろした。
 唇の端が引きつっている向かいの男を見て、ルーピンはまずかったかな、と心の中で呟いた。
「紅茶のためなら、人を待たせても仕方がないというわけか」
 セブルスは、敵意のたっぷりこもった目で吐き捨てるように言った。一度手を掛けかけたティーカップから指を話したところを見ると、よほど腹が立っているらしい。
(……単にタイミングの問題、ってわけじゃなさそうだ)
 自分でもよく分からないまま怒りを向けられているルーピンは、何がそんなに彼の気に障ったのかを考えるよりも、いっそのこと謝ってしまった方がいいような気がした。長年の経験から、「一体何が気に食わないんだ」などと言ってしまえば確実に杖を取り出して威嚇されることは目に見えている。

 謝罪の言葉を口にしようとしたルーピンを遮るように、セブルスは徐にローブのポケットに手を差し入れ、小瓶を取り出した。一見しただけでは、水差しと花瓶の中間のようにも思える。
 しかし、中に入っているものが紛れもなくただならぬ薬品の色をしていることと、コルクでしっかりと蓋をされていることから、その小瓶はセブルスがここに来た理由をルーピンに思い出させた。
(……そうか、そろそろ薬の受け取りに行かなくちゃいけなかったのか)
 そういえば、先週この部屋に久しぶりに戻ってきたときに、何枚かふくろう便が届いていたのを、デスクにしまいっ放しだった気がする。一応差出人は確認したが、もしかしたらその中に混ざっていた彼の名前を見落としていたのかもしれない。
 薬を飲むことを忘れることはないが、何らか予兆があるまで自分の生涯の悩みについてはあまり心配しないようにするのが癖になっていたので、新しく発明されたという一週間前から服用し続けるタイプの薬には、まだあまり慣れていない。
 とはいえ、今目の前で仏頂面をしている男にとっては、自分はただの厄介な患者でしかないのだろう。

 ルーピンがそんなことを考えている間に、セブルスは小瓶をテーブルの上に置き、いい匂いを漂わせている紅茶を一口だけ飲んで、用は済んだという風にさっさとソファから立ち上がった。
「……まだ人間としてまともな理性を持っているなら、いつものように服用することだな」
「ありがとう。感謝するよ、セブルス」
「勘違いするな。吾輩は、校長の命令で薬を作っているだけだ」
 それ以上相手に口を開く隙を与えまいとするように、セブルスはルーピンを一度ぎろりと睨み下ろして、長いローブの裾を揺らしながら扉へと向かった。
 セブルスが近づくと、扉は開いた時と同じようにゆっくりと開いた。いつもにやにやと笑っているノッカーを極力視界に入れないようにしながら、彼は部屋を出た。――否、出ようとした。
 実際セブルスの片足は数センチほど部屋の外に出ていたが、それ以上彼は足を進められなかったのだ。
「……何だ、これは……」
「セブルス? どうかしたかい?」
 せめて見送りに出ようと後についてきていたルーピンが、いきなり動きを止めた男の黒い背中に問いかけた。よもやまた彼が振り返って罵詈雑言を自分に浴びせかけるとは思えなかったが、可能性がないとは言い切れないので、彼と一定の距離を開けるために自分も立ち止まる。
 ルーピンは、問いかけに答えないセブルスの視線が下の方に注がれているのに気がついて、同じように目線を下におろした。

 そして。

「……え?」

 そこに埃まみれの小さな猫を見つけて、同じように固まってしまったのだった。