開いた扉のわずかな隙間から、優雅な音楽が流れ込んでくる。
 三拍子で、クラリネットとフルートが可愛らしいメロディを奏でている。そこにファゴットも加わり、さらにヴァイオリンが美しい主題を――
(……って、聞き惚れている場合じゃなかった)
 薄暗い扉の隙間を見つめて、は緩みかけた口元をもう一度引き締めた。
 音楽を聞いていると、それ以外の細々とした悩みごとなんかはどこかへ飛んで行ってしまうから、気をつけないと。少なくとも今はワルツの軽やかさに浸っている場合ではない、ということは明らかだ。

 勢いよく走ってきたけれど、どこか当てがあってその方向に走っていたわけではない。
 じっくり考えれば、慣れ親しんだ学校のこと、しばらく隠れている場所くらい思いつけそうなものだが。
 今自分は猫の姿をしているのだし、決して人間の時ほど大きいスペースが必要なわけではないのだ。先生の部屋からほど近い資料室に積まれた段ボールの陰でも、長いカーテンの裏でも、どこでも隠れようと思えば隠れられる。
 でも、まだ走ることにすら慣れていない身体を必死に動かしている間は、まともに考えを巡らせることもできず、いつの間にかよく知った場所へと辿りついていた。
「ここは……」
 百パーセントの自信を持ってそうとは言いきれないけれど、きっとこの部屋は、ウィーズリー先生の部屋だ。扉の上の方に、マグルのフットボールチームのポスターが貼ってある(彼がクィディッチよりもフットボールの方が好きなのではないか、という噂が流れているのはこのポスターのせいである)。
 その上、今流れているこの音楽は、有名なマグルの作曲家の曲だ。
 この学校で魔法を教えている先生はほとんどがホグワーツから派遣されてきた魔法使いだから、よくよく考えればこうしてイギリスの魔法界の人間が部屋でマグルの古典的な音楽を流しているのは、まずあり得ないことなのだけれど。この部屋の持ち主に関しては、それが日常的すぎて周りが慣れ切ってしまったわけである。
 もっとも、魔法界でもよほど音楽に詳しくなければ、この作曲家がマグルであるということなんて分からないのだろうし、最近では魔法使いたちが編成する楽団でもマグルの曲を演奏することが少しずつ増えてきたようだ。今聞こえているこの曲も、もしかしたら魔法使いが演奏しているのかもしれない。
 がマグルの曲をよく知っているのは学校以外の日常生活をマグルの世界で送っているからなのだから、そもそもこの学校の他の先生たちはウィーズリー先生の趣味にあまり違和感を感じていなかったという可能性もある。
(ルーピン先生は、分かっていたみたいだけれど)
 だって、ウィーズリー先生がマグルの音楽を聞いているとき、いつもちょっとだけ笑いかけてくれるから。

「ウィーズリー先生?」
 試しに、部屋の中に向かって呼びかけてみた。
 ガタンと椅子が倒れる音がして、続けてバタバタと扉に向かって歩いてくる音が聞こえた。
 歩いてくる、というよりは駆け寄ってくる、という方が近いような足音だったので、は身構えて一歩後退した。魔法薬の材料にされるのも怖いが、正面からまともに踏ん付けられるのも同じくらい恐ろしい。
 やがて慌ただしく姿を現したのは、やはり予想していた通りの人物だった。
 ウィーズリー先生は、扉を大きく開けて数秒間宙に視線を彷徨わせた後で、やっと下から見上げているに気がついたようだった。
「……なんだ、猫か」
 吐き出された先生の一言に驚いて、は目を見開いた。
「生徒の呼ぶ声が聞こえたような気がしたんだけどな」
 首を傾げつつ部屋の中に戻ろうとするので、は慌ててウィーズリー先生の足にとびついた。
「先生、私です! です!」
 オーケストラの優しい音色が、さっきよりも大きく聞こえる中で、それとは対照的に先生は困り顔になって足元の猫をもう一度振り返った。
(……人間の言葉に聞こえてるのかな?)
 少なくとも自分自身の耳には、ちゃんとした言葉に聞こえるのだけれど。先生の表情を見ていると、伝わっているはずという自信が急速に消えていく。
 案の定、その場にしゃがみこんだウィーズリー先生はの首筋あたりを撫でながら、困り顔を崩さない。
「首輪はしていないし……野良かな? なあ、お前どこから来たんだい?」
「だから、ですってば。先生!」
 鳴いてるばかりじゃわからないよ、と苦笑しながら、先生は再び立ち上がって部屋の中に戻った。
 戸を閉める直前に、呆然としているを振り返る。
「すまないね、今仕事が立て込んでいるんだ。もうじき日も暮れるし、早くうちへ帰りなさい」

 さっきまで半開きだったドアが完全に閉じられて、音も聞こえなくなった。
 は、フットボールの選手と目を合わせて、ため息をつきたい気持ちを堪えた。
 予測がつかないこともなかったが、いざ言葉が通じないと分かるとやっぱりすごくショックだ。
 でも、スネイプ教授がウィーズリー先生を訪れる可能性も、ゼロではない。この部屋の前でぼうっとしているのは得策ではないだろう。
 は別の避難場所を探すべく、また歩き始めた。



 数分後、は図書室の中にいた。
 首をうんと持ち上げると、連なる書棚にたくさんの本が並び、窓際には机と椅子がいくつか置かれている。卒業してからはあまり来なくなったが、学生の頃は毎日のようにここで勉強したり本を読んだりしていたものだ。
(何かの拍子に本が落ちてきたら、大怪我しそうだ)
 学校の規模自体が小さいので、この図書室は広くないし蔵書もあまり多くはない。それでも自分が小さくなってしまったからか、机や棚がやたらと大きく見えて、腰が引ける。
 ルーピン先生の部屋からは結構な距離があるので、スネイプ教授がここまで来るとは思わないけれど、一応身は潜めておいた方がいいだろう。魔法薬の材料にされてはたまらないし。
 一番入口に近い書棚の前まで来て、下方の引き戸が開けっ放しになっていることに気がついた。
 入れるかな? と首を突っ込んで中を覗いてみると、引き戸の中には数冊のファイルが無造作に置かれているだけで、猫一匹が隠れる隙間は十分にありそうだった。
 そのまま身体をぐいと押し込んで、中に滑り込む。尻尾まで中に収まったのを確認してから、前足を使って引き戸を閉めた。
「暗い……」
 漏れた呟き声はわずかも反響することなく、暗闇の中で木製の戸に吸い込まれていくように消える。
 気が抜けてぺたんとお尻をつくと、埃が舞って鼻がひくひく動いた。
 ちょっと身を屈めていないと頭が天上にぶつかってしまうし、どうせなら寝そべっていた方が体勢は楽だろう。日頃からよく猫が寝そべっている様子を見ているので、確かこんな風だった、と足を曲げると、すぐに丁度良く身体が丸まって、また少し力が抜けた。
 少しずつ瞼が重くなる。
 先生がもうすぐ帰ってくるはずだから、その時には執務室に戻っていないと心配するだろうな。服が置きっぱなしにされているし――とぼんやりした頭で考える。
 頃合いを見計らって部屋に戻らないと。
 そう思った次の間には、は眠りの海の中に落ちていった。