開始のボタンを押して、オーブンが正常に動き始めたのを認めると、リーマス・ルーピンは大きく息を吐き出しながら後ろ手でテーブルに凭れた。後は待つだけになって、一気に力が抜けてしまったのかな、と心の中でぼんやりと考える。 簡易キッチンには、相変わらず濃いチョコレートの匂いが漂っていた。 帰ってきたときには半分ほど砕かれていたチョコレートを最後まで砕き、生地に混ぜ合わせてオーブンに放り込んだだけなのに、終わってみるととてつもない疲労感が彼を襲う。 (……はあ) 目を閉じて甘いチョコレートの匂いを吸い込んでも、一向に気分が良くならない。「そりゃそうだ」、と心の中でもう一人の自分が言う。こんな状況で、落ち着いた気持ちでいられるわけがない、と。 「」 もう一度だけ、と思いつつ名前を呼んでみたが、やはり返答はなかった。 は一体何に変身したのだろう? 何にしても、人間よりは小さい生き物のはずだ。ルーピンは、先程から繰り返している問答をまた始めた。当の本人に、同じことを繰り返しているという自覚はない。予想外のことに自分が動揺しているという自覚すら、あるとは言い難かった。 犬か。兎か。鳥かもしれない。変身後は哺乳類になることが比較的多いとはいえ、もしも小さな虫などになっていたら、見つけるのは難しい。犬や猫であれば、吠えて存在を知らせることもできるだろうけれど、小さな蟻やテントウムシだったらそれも不可能だ。 あれから――キッチンの床に放置された服を発見してから、ルーピンはもう何度も同じことを考えては、深いため息をついていた。 何か事情があって服を着替えたにしろ、下着まで脱ぎ捨てていくのはさすがにおかしい、と思い始めた彼の頭にふと浮かんだのは、在学中によく目にした光景だった。もう何年も前のことだったが、それでもはっきりと思い出せる。 その光景が、今自分の目の前に広がっているものととてもよく似ている、と思い当たったのだ。 ピーターが、初めて自分の前で動物もどきに変身してみせたとき。確かこんな風ではなかったか。 見ててよ、と緊張した面持ちで告げてからしばらく我慢比べのような顔をしていたピーターは、不意に音もなく縮んでいった。それに合わせるようなスピードで彼の着ていた衣服が床に落ちたように見えたのは、きっと、あまりにも驚いていたからなのだろうけれど。 目を瞬かせているルーピンの前で、一匹の鼠がローブの下からもぞもぞと姿を現して、両脇で見守っていたジェームズとシリウスがハイタッチをした。懐かしい記憶。 「……?」 間違いないと確信を抱いて、の衣服をくまなく探してみたが、それらしき動物もどきの姿は見つからなかった。アニメーガスになり損なって身体が悲惨な姿になった絵は教科書などで見ていたから、失敗したわけではないのだろうと想像はついたが、それならばは変身した後、ここから別の場所に移動したということになる。 は優秀な魔女だけれど、さすがにアニメーガスに自分で変身できるほどではない。誰かが彼女に魔法をかけたのだろう。その「誰か」が動物もどきに変身したをどこかに連れ去ったのだろうか。 そこまで考え、服の傍らに屈んでいた身体を起こして、部屋の入口に急ぐ。 「オブリオーズ、誰かこの部屋に入れたかい?」 ノッカーならば侵入者の顔を覚えているはず、とあくびをしている獅子に聞いた。 「誰も入れてない」 その質問は聞き飽きたという風の獅子を真剣に見つめたが、これ以上何も言うことはないとそっぽを向かれてしまうと、打つ手がない。 もともと、この獅子は自分に服従するよう設計されているわけではないのだ。口から出まかせばかり言うし、なかなか人を中に入れたがらないのも単に身体を動かすのが面倒だからではないかと、ルーピンは常日頃から思っていた。 (……でも) 誰もこの部屋に入っていないなら、一体は誰に魔法をかけられたというのだろうか? 「それなら……何か生き物が、この部屋から出て行かなかったかい?」 「何か生き物と言われてもな。蟻やら蜘蛛やらは、勝手にここを出入りする」 目線を下に落とすと、極小さな生き物なら通れそうな隙間はあった。 もし、本当にもし、そんなに小さな生き物になってしまったとしたら、どうしようもない。 途方に暮れていると、俯いた彼の頭に低い声がかかった。 「いい匂いがしているな」 「え? ああ……が、スコーンを作っていたようだから」 「それを焼いて待っているうちに姿を現すだろうよ。あの小娘を探しているんだろう」 部屋の中に彼女の姿がないことを気配で察知したのか、獅子は僅かに気遣わしげな声音で言う。 「あの小娘は甘いものに目がないからな」 「……そうかもしれないね」 力なく返事をして、ルーピンは部屋の中に戻った。 確かに、どんな姿になっているかも分からない人を探して歩くのは至難の業だ。変身し慣れていない動物もどきは、人間の時ほどの感情を変身後に維持することが難しいと聞いているし、そうなるとがこちらの呼びかけに答えてくれる確証もない。 探し回っても甲斐がなさそうなら、の帰巣本能に任せるしかないのかもしれない。そのうち変身が解けて戻ってくる、ということも考えられる。 (……) キッチンに戻ってもう一度彼女の服を見下ろし、ルーピンは浅くため息をついた。 が何の姿に変身したとしても、いつ元の姿に戻るかは、魔法をかけた者の魔力の強さや意思である程度変わってしまうので、予測不可能と言ってもいい。 が元の姿に戻るときが分かれば、すぐに服を用意できるのに、と心の中で一人ごちる。何しろ一旦アニメーガスになって服が脱げたり破けたりしてしまったら、元の姿に戻ったとき丸裸になるからだ。訓練された動物もどきならば、自分に着脱魔法をかけたりすることはできるけれど。 誰が魔法をかけたのかという疑問はまだ残っているが、この部屋を出入りした者がいないというノッカーの言葉を信じるとしたら、変身したが誰かに連れ去られたということはないわけだ。 に魔法をかけた誰かが強烈な憎しみを彼女に抱いていない限り、変身がそこまで長続きすることはないだろうし、あのが誰かの恨みを買うことはないとは思う。 でも、心配なものは心配だ。 「……アクシオ」 駄目でもともと、と杖を手にして唱えてみたが、やはりは現れなかった。 の今の状態がある程度正確にイメージできていないと、呼び寄せ魔法もやはり効果がないのだろう。 不安を押し殺して、すぐに戻ってくるはずという期待を抱きながら、ルーピンはの服をそっと拾い始めた。 スコーンを焼いているうちに、きっと戻ってくる。 そう信じるしかない自分自身がもどかしい。 |