「そこで何をしとるんだ?」 は、掛けられた声に一瞬呆然とした。 遥か頭上から落とされた、低い声。それは間違いなくあの獅子のノッカーの声で、いつもと何も違うところはないのだけれど、どうやって開けようかと悩んでいた扉がいきなり勝手に開いたことに驚いていて、咄嗟に反応ができなかったのだ。 黙って硬直しているに、ノッカーは呆れたような声で言う。 「出るのか出ないのか、はっきりしろ。小娘」 「……どうして分かったの?」 『小娘』と呼びかけられ、我に返る。絞り出すような声で問うと、ノッカーは面倒くさそうな声音で答えた。 「わしは魔力が強いからな。気配で判別くらいはできる」 「そういうものなの……?」 「お前の貧弱な魔力を、わしがどれほど長い間見てきたと思っておるんだ」 不本意だ、というような口調には少しムッとする。それでもすぐに先程の自分の失態を思い出して、急速に怒りが萎んでいくのが分かった。 この学校には、話に聞くようなホグワーツほどには生徒はいない。自分は魔力が弱い方ではないと思っていたが、もしかするとそれも外に出れば通用しないのかもしれなかった。実際、の魔力よりもこの「ただの」ノッカーの方が強いということは明らかだ。 「……何を落ち込んでおるのか知らんが、話を続ける気なら部屋の外に出ろ」 え、とが首を傾げていると、扉がゆっくりと閉まり始める。 自分で再び扉を開けるのは多分無理だ、ということを思い出して、慌てて部屋の外に飛び出した。 開いた時と同じ重い音をたてながら閉まる扉を見つめていると、獅子がふんと鼻を鳴らす。 もしかしたら寒がりの教授を気遣ってのことかな、と思って見直そうとしたが、思い切り見下されている今の状況では、そんなことをわざわざ口に出して確かめる心の余裕などなかった。 「ところで、お前は一体全体どうしてそんな姿になっておるんだ」 その一言で、はやっと当初の目的を思い出した。扉に飛びつくようにして、手(前足)をかける。 「お願い、教えて欲しいことがあるの」 の言葉に、獅子はひくりと眉を吊り上げた。続きを促されているというよりは、訝しんでいるような仕草だったけれど、構わず続ける。 「ルーピン先生が出て行ってから、ここに入ってきたのは誰?」 「はあ?」 言っている意味が分からない、という風な声をあげた獅子に、はじれったい思いを抑えながら再び問うた。 「だから、この部屋に誰を入れたの?」 「……今日の来客で中に通したのは、お前だけだ」 「え?」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 (誰も入れていない、だって?) 冗談でしょうと咄嗟に言い返しかけて、獅子の表情が冗談を言っている風ではないのを見て、口を噤む。 もし、本当に誰も部屋に入っていないとしたら。 自分を猫の姿にした誰かは、近づくこともなく魔法をかけたということか。 そんなことが果たしてできるのか――と考えて、はハッとした。 「チョコレート……!」 「何?」 怪訝そうな獅子を無視して、つかまっていた扉から手を離す。 「そうだ、チョコレートを食べてすぐ、意識がなくなって」 「おい小娘……いや、チビ猫。何を言っておるんだ?」 「もしかして、あのチョコレートに変身薬が入っていたの……?」 でも、先生は「友人からもらった」とだけ言って、扱いに注意しなければならないというようなことは全く言っていなかった。 それに、先生の友人が怪しげな薬品の入った食べ物を気軽に渡すとは、にはとても思えなかった。変身薬は一歩間違えれば生死にだって関わるし、ただの悪戯と笑って済ませられるものでは到底ありえない。 「味は、普通のチョコレートだったけれど……」 考え込んでいたは、ノッカーが軽く自身を扉に叩きつけて、注意を促すように音を鳴らしたのに気づいて顔を上げた。 獅子は真下にいる猫ではなく、廊下の一方、から見て右側に伸びた通路の奥を見つめている。 見つめている、というよりは、両目を出来る限り左側に寄せている、と言った方が近い。はっきり言って、昼間の明るい光の元でもその表情は少し不気味である。 一体何があるのか、ともそちらに視線を向けた。 目を凝らしてこちらに向かって歩いてくる姿を確認すると、は息をのんだ。 「ス、スネイプ教授……!」 頬を引きつらせたに視線を戻した獅子は、いつも通りの口調で言う。 「いつまでもここにいると見つかるぞ。いいのか?」 あの薬学教授の行き先はどうやらこの部屋のようだ、と続ける獅子に、は小さく首を傾げる。 彼に姿を見せてもいいのかどうか逡巡する気持ちは確かにあったけれど、獅子は「見つかるとまずいんじゃないか」と言いたげである。 「どういうこと?」 「実験の材料にされても知らん、ということだ」 「……」 敏感に気配を察知してわざわざ知らせてくれたのはありがたいが、そんな風ににやにやしながら脅されると、感謝の気持ちを伝える気にはとてもなれない。 獅子の脅しが嫌にリアルなので、は眉を顰めた(実際には髭がぴくりと動いただけだったが)。 スネイプ教授の授業を受けたことはないし、話をしたこともない。ホグワーツで魔法薬学を教えていて、年に数回ルーピン教授を訪れる、無愛想な人だというくらいしか彼についてのデータはないけれど、「実験の材料にされるぞ」と言われてちょっと怖くなってしまうくらいには、不気味な雰囲気を纏った魔法使いだ。 こんな人が先生の知り合いだなんて、と最初は信じられなかったが、数年経つと彼の訪問にも慣れてきた。執務室や廊下でごくたまに出会っても、端に寄って会釈くらいはするようにもなった。会釈を返されたことは、今まで一度もなかったが。 (でも。……やっぱり怖い) 今、自分は人間ではなく、猫の姿をしているのだから。 スネイプ教授がもし調合に使う手近な猫の髭や皮を探していたとしたら、偶然見かけた首輪もつけていない猫に目を留めることもあるかもしれない。 想像すると、恐怖が襲ってきた。 「逃げるなら今のうちだぞ」 この状況を若干面白がっている様子の獅子にとりあえず頷きを返して、は教授が歩いてくるのとは反対側へ、廊下を走りだした。 「……」 開こうとしない扉の前で、セブルス・スネイプは拳を握り、険しかった表情をさらに大きく歪めた。 対照的に、彼の黒いローブと艶のある黒髪は静かに垂れ、微動だにしない。 「留守、だと?」 舌打ちをしたい衝動を堪えながら、忌々しげに金色の獅子の形をしたノッカーを睨み据える。ノッカーを睨んでも扉が開かないのは承知していたが、そうでもしないと、怒りのやりどころを失った拳が、今にも胸ポケットに収まっている小瓶を地面に投げつけて割ってしまいそうだった。 (一体誰のために、何時間もかけて調合していると思っている……!) 取りに来い、と催促をして、結局ギリギリまで来なかったことは数知れず。間際になってここへ届けに来るのが、彼にとっては苦痛でしかなかった。 それでも律義に薬を持ってくるのは、間に合わなければ一週間分を調合した甲斐がなくなるから。そして、この任務を自分に命じた老いぼれ爺のあからさまな牽制を受けるのが、面倒で仕方がないからだった。 ああ、腹が立つ。 懐に向かいそうな手を抑えるだけでも必死なのに、この獅子のノッカーがまた小憎らしい笑いを口元に張り付けているものだから、彼の苛立ちはますます募る。 とはいえ、ここで一人怒りに震えているのは滑稽極まりないと何とか思いなおし、セブルス・スネイプは踵を返した。 「……あの狼野郎め、後で思い知らせてやる」 背を向けたものの我慢できずに漏れた罵倒を聞いたらしい獅子が、背後でケタケタと笑う気配がする。 忌々しい。 また夜にここを訪れなければならないと思うと、彼はいつものように音も立てずに颯爽と歩くことをすっかり忘れてしまっていた。 荒れた足音が遠ざかるのを、金色の獅子がにやにやしながら見送った。 |