ぱち、と目が開いた。頭はまだ、ぼんやりとしている。 視界に入る領域は、すべて黒に埋め尽くされている。数秒してから眠っていた感覚が戻ってきて、自分が腕を顔の下にしいてうつ伏せになっていることに気がついた。 「――?」 最初は、絨毯の上にでもいるのだろうかと思った。でも、顔と地面の間には自分の腕があるはずで。 つまり、腕がふわふわしている。 いや、顔も、ふわふわしている。 真っ暗な中で顔だけ持ち上げ、指先で頬を触ってみて、そこがかつてないほどの毛に覆われているのをしっかりと確認して、は目を大きく見開いた。その指先も毛で覆われていたので、擦り合わせると最早どちらの毛なのか分からなくなってきそうだけれど、確かに頬にも毛が生えている。 身体をもぞもぞと動かしてみると、奇妙な感覚が全身を襲って、眉間に皺が寄った。 足を動かしたい、と思って動かそうとすれば動くのだが、それがどにもぎこちない。なめらかとはとてもいえない、ギギギ、と機械音がしそうなほどのぎこちなさなのである。 なんとか体勢を変えてみようと苦労していると、身体の上に覆いかぶさっているものと擦れて、耳がぴくりと動いた。 (……) 上にのしかかっているものがあることに初めて気がついた。暗いのはそのせいなのだろう。 痺れが少しずつ解けるように思い通りに動かせるようになってきた手足を使って、覆いかぶさるものから逃れるために地面を這う。我ながらみっともないと思ったけれど、いつまでもこうして這いつくばっている方が耐えがたい。背に腹は代えられない、とはこのことだと思う。 上に乗っているものと絡まり合いながら、それでもやっとのことで抜け出すと、目に飛び込んできたものには自分の目を疑った。 「……はぁっ?」 おまけに飛び出た、短い叫びのような声が、ショックのあまり裏返る。 明るい光の中で見下ろした自分の腕が、思いっきり獣のそれになっていたら、誰だって同じ反応をするだろうと思う。 獣の――とはいっても、およそ獰猛な生き物のものとは似ても似つかない、可愛らしいちんまりとした手。 猫だ。 間違いない、とは思った。家で飼っているのだから、手が猫のものかそうでないかくらいは、判断がつく。けれど、自分の腕が猫のものになっている、という回答が得られたからといって、状況が把握できるというわけでもなくて。 遠くに行きそうな意識をひっつかまえて、落ち着け、と言い聞かせる。 これが嫌な夢であることを祈りながら、もう一度頬に手を添える。 「猫……」 毛むくじゃら、とまではいかなくても、あきらかに人間の顔ではない。 見た目よりも柔らかい自分の手を、頬から鼻、そして口元へと移動させて、ハッと気づく。 「声。は、出る……」 確かめるように呟くと、すんなり口から出てくる言葉にほっと安堵する。聞く人にも「人間の言葉」として聞こえるのかどうかは知らないけれど、とりあえず何もかも猫になりきってしまったわけではなさそうだ。 振り返ると、先ほど必死に抜け出してきたもの――自分の服――が積み重なっているのが目に入った。それも、かつて見たこともないほど多きいスケールで。 茶色の靴下だけでも、シングルベッドのシーツくらいのサイズに見えて、知らずため息がこぼれた。 それなら、と思いぐるりと首を回し、周囲の状況を確認する。案の定、そこはルーピン先生の執務室横のキッチンで、見慣れたものが規格外に巨大に見える以外は、自分の最後の記憶と何ら違うところはなかった。窓から差し込む光の強さも、漂う香りも、同じ。 マグルの世界で「目が覚めたら猫になっていました」なんて話は聞いたことがないから、恐らくこの現象は何らかの魔法によってもたらされたものだろう。 倒れる前に気配は感じなかったけれど、もしかしたら自分に魔法をかけた誰かがまだ近くにいるのではないかと、は身を固くした。 「……」 何の物音もしない。 少し鋭くなったような気のする感覚神経を尖らせたまま、執務室へと歩いて行く。歩く要領が大分つかめてきて、歩幅も大きくなった。 こんなときこそ焦ってはいけないと言い聞かせても、そう簡単に不安や動揺を抑え込めるほど経験豊かではない。 執務室には、誰かが潜んでいるような気配は感じられなかった。足裏に埃がくっついてくるのを気にしながら、唯一の出入り口である扉に近づく。いつもの馴染み深い扉が、近づくにつれて異様に大きく迫ってきて、恐ろしくなる。 けれど、ここで怯えていたらせっかく思いついた案を実行に移せない。 先生の執務室に入るにはこの扉を通らなければならない。それならば、誰が入ってきたかはあの獅子のノッカーに聞けば一目瞭然だろう、と考えたのだ。 犯人はが目を覚ました時にはもういなくなっていたようだが、ルーピン先生が戻ってきた様子がないということを考えると、気を失っていた時間はそれほど長くはないと思う。その間に出入りした人間の顔くらい、獅子は覚えているだろう。こんな姿にされておいて、敵の顔も知らないのは心許なさすぎる。 扉の手前までやって来て、は口元を引き締めた。 自分が扉を開けられるのかとか、ノッカーと言葉が通じるのかとか、諸々の不安はあるけれど、やってみなければ分からない。 大人しく部屋の主が戻ってくるのを待つという選択肢が浮かばないこともなかったが、どうにも気が進まない。あっさりと魔法をかけられてしまった自分を不甲斐なく思う気持ちがあったからだ。情けないやら腹が立つやらで、じっとしていられないというのが本音だった。 (よ、……よし) 意気込んで扉に触れようとした、そのとき。 いつもよりずいぶん重たく聞こえる音を響かせて、扉がゆっくりと開いた。 |