「あら……ルーピン先生?」
 ふと、背後から女性に声を掛けられた。
 休日ということもあって人通りの多いホグズミード村だが、自分と同じ「ルーピン」という名前で、しかも教師をしているとくれば、自分以外にもう一人いるとは考えにくい。
「……マダム・ロスメルタ」
 振り返って確認すると、普段通りの人好きのする笑顔を浮かべたロスメルタが立っていた。服装と髪型だけは、店の外だからか少し地味になっていたけれど、華やかな顔立ちと艶やかな声は健在である。
 さっき声を掛けられて動揺したのは、友人にこんなにも艶っぽい声の人がいたか、と迷ってしまったからだ、と遅まきながらリーマス・ルーピンは納得した。
「何かお買い物? ……って、この店にいるなら、決まってるわよね」
 ロスメルタは、そう言ってウインクしてみせる。
 バーの暗めの照明の下で見るのと明るい光の下で見るのとでは、こうまで印象が変わるのかと思ってしまうほど、彼女はいつもよりかなり――素朴に見えた。女性にそんな形容をつけるのは失礼のような気がしたので、実際口にはしなかったが。
「そうだね。ここの紅茶は美味しいから、気に入っているんだよ」
「私もよ。『三本の箒』では、あいにく紅茶を頼む人は少ないけれど一応メニューにはあるわ。ここの茶葉を使わせてもらっているの」
「今日は買い付けに?」
 思い浮かんだことをするりと口に出して問うと、彼女は甘く笑って首を振る。
「友人のプレゼント用に買いに来たの」
「そうか。その人も紅茶が好きなんだね」
「えぇ、とっても。だから、気合入れて選ばなきゃ。……ルーピン先生は、自宅用かしら?」
「うっかり切らしてしまってね。来客用に淹れようとして、気がついたんだ」
 ルーピンはそう言った後、ぴくりと眉を下げた。を待たせていることを、ふと思い出したからだ。
 多分、スコーンを作ってくれているだろうから暇はしていないと思うが、一応「客」に当たる彼女をあまり待たせてよいものではないだろう。
「そう、客を待たせているんだった」
「え?」
「すまないね、また今度」
 いつもと同じパッケージの箱を手に取って足早に去る背中を見つめながら、ロスメルタは、女かしらと意味ありげにひっそり笑った。



 やけに静かだ、と思った。
 いつものように煙突飛行で学校に帰り、自分の執務室に戻ってみると、物音もしなければ気配も感じられない。チョコレートの甘い香りが、部屋中を包みこんでいるだけだった。
 若干の嫌な予感を打ち払いながら、彼はキッチンへと歩みを進める。
 物音も気配もないのは、大した問題ではない。これだけチョコレートの匂いがしているのだから、が着々とスコーンを準備してくれているはずだ――と、自分自身を落ち着かせて。
「……?」
 胸がざわついた。
 キッチンには、一見して彼女の姿は見当たらない。扉を挟んだ奥の部屋、自分の寝室へと足を速めた。
 妙に慎重な手つきで扉を開けて、中を確認する。
 しかし、彼女の姿は見つけられなかった。

 浅い息をつき、寝室に踏み出した一歩を元に戻して、また扉を閉めた。キッチンを見渡すと、作業台の上には作りかけのスコーンの生地と、半分ほど砕かれて放置されているチョコレートが置いてある。
 もう涼しくなってきているから、溶けてはいない。
 チョコレートを見て、今朝のシリウスを思い出した。
 久しぶりに会った親友は、変わらず快活な笑みで、最近起こったことや、大臣の演説がどうこうという魔法界のこと、そして騎士団の仕事のことを語ってくれた。彼は卒業後すぐに騎士団に入団して、優秀な魔法使いとして周りに認められつつあるらしい。若さや見た目のこともあってなかなか認められにくい、と本人はこぼしていたが。
 別れ際、顔色が悪いからこれを持って行け、と差し出されたチョコレートの包みを笑顔で受け取ると、何だか複雑な顔をしていた。
「……」
 本能とは恐ろしいもので。
 ルーピンは、自分でそれと意識する前に、チョコレートのかけらを摘まんで口に入れていた。
 口の中で小さなチョコレートを転がしながら、彼はわずかに苦笑した。自分では気づかない内に、疲れていたのだろうか。それとも、ただいい匂いに誘われて手が伸びただけなのだろうか。
 どちらにせよ、今は自分のことにかかずらっている暇はない。
 何か緊急の用事で自分を探しているのかもしれないし、そうなると下手に動かない方が出会える確率は高くなるのかもしれないが、ここで大人しく紅茶を淹れながら待てるとはとても思えなかった。さっきより強くなった嫌な予感に必死に抗って心を落ち着けようとするよりは、動き回っていた方が気が楽だ。
 そう広くはない学内のどこかへ探し物に行っているなら、それでよし。しばらく探して見つからなかったらここに戻ってくればいい。きっとその頃には彼女も帰ってきているだろう。

 部屋を出ようとして、ふと床に落ちているものに気がついた。
「……服?」
 明らかにそれは、布の切れ端などではなくちゃんとした服だったのだけれど、呟きが疑問形になってしまったのは、信じられない、という思いからかもしれない。
 の服だ。
 ブレザー風の黒いチョッキ、白いブラウス、チェック柄の長いスカートが、順番に眼に映る。いつも履いていたはずの茶色のローファーまで、服の下に埋もれるようにして並んでいた。
「これは――」
 どういうことだ?と、答えてくれそうな人もいない質問を、喉元で押し止める。
 キッチンの、しかも床の上に服や靴を脱ぎ捨てて、どこかへ出ていくような、そんな子だっただろうか?
 否、とすぐに答えは出た。は、親と過ごした期間が短かった割には、躾の行き届いた真面目な子である。何か別の服に着替えたとしても、脱いだ服をちゃんと畳んで鞄に入れる、くらいのことはするはずだ。
 時間がなくて焦っていたのだろうか、とも思ったけれど、肝心の急ぐ理由を思いつけない。それ以上に、服を脱いだり着替えたりする理由が、一番の謎なのだが。
 首を捻り、衣服が落とされている傍らにしゃがみこんだ。見つけてしまった以上、このまま床に放っておくわけにもいかない。
 どこかに移動させようとして、何か手紙などの手がかりがないかと思いつき、小さな山になっている服を持ち上げていく。

 一瞬、体と頭の動きが停止した。

「……」

 は、どうやら、下着まで脱いでいったらしい。