真っ黒な長い髪の少女――ちょうど「少女」と「女性」の間の年齢に見える――が、通りを歩いている。 庭に出て月桂樹に水をやっていた老婦人が、コツコツと靴音を鳴らして歩く彼女に優しく声をかけた。 「おはよう、ちゃん」 「富美江さん」 かけられた声に、と呼ばれた少女は笑顔で垣根に歩み寄った。老婦人は両手でブリキの如雨露を持ったまま、家の門を通って少女に近づく。 「おはようございます!」 は、数歩先のところまで歩いてきた冨美江さんにそう挨拶を返しながら、ずり落ちかけた鞄の取っ手を引き上げた。 「あら、今日はずいぶん荷物が重そうね。何が入っているの?」 「先生にたくさん本を借りていたんです」 そろそろ返さないと怒られちゃうから、と舌を出すに、老婦人は「まぁ」と微笑んだ。 「先生はお元気? 先週戻って来たって聞いたけれど、まだお会いしてないの」 「元気ですよ。ちょっと痩せてましたけど、すぐに元に戻られると思います」 その言葉を聞いて、老婦人は一瞬きょとんとしてから、口元を緩ませた。 「ちゃんが腕を振るうものね」 「はい。太らない性質だといっても、今はちょっと痩せすぎなので。健康的にしてさしあげようかと」 頼もしいこと、と楽しそうに言って老婦人は如雨露を地面に置いた。そのまま、「待っててね」と言い残して門をくぐり、家の中に入っていってしまう。 何だろう、と思っていると、少しもしないうちに小ぶりの瓶を持って戻ってくる姿が目に入った。 「これ、林檎ジャムよ。たくさん作ったから、良かったら持って行ってちょうだい」 「いいんですか?」 「息子が木箱一杯に林檎を買ってきたものだから、持て余してるのよ。先生に食べさせてあげて」 「……それじゃあ、ありがたく頂きます」 「あ、でも荷物がまた重くなってしまったわね。帰りに受け取っていく?」 「大丈夫です。今日のおやつのスコーンに合わせたいですし!」 言いながら、先生に食べさせてあげるために張り切っているというよりは、自分の食欲の方が勝っていることに気がついて恥ずかしくなったけれど、富美江さんは優しく「そうね」と笑っただけで何も言わなかった。 「……だから」 古めかしい扉の前で、一度深呼吸をする。 なるべく抑えた慎重な声を作ろうと努力しながら、獅子を睨み据えた。 「嘘なんてついていない、って言っているでしょう」 「生意気小娘の言うことなんて信用ならないね」 木製の扉の、の目線より少し下の位置に取り付けられたノッカーが忌々しげに吐き捨てる。 獅子の形をしたそのノッカーは、先生の執務室に入ろうとする者を拒むのが趣味なのである。 「また何か危ないものを隠し持っているんだろう」 「この中に入っているのは、先生の本よ。あなたがここを開けてくれないと先生に返せないじゃないの」 「どうだか! また怪しげな食べ物を持ってきて教授に食べさせるつもりなんだ」 「怪しげな食べ物なんて作った覚えも、持ってきた覚えもありません!」 「ふん。お前が持ってきた食べ物でルーピン殿はいつも腹を壊しているようだが?」 「……嘘よ」 「嘘じゃない」 獅子の様子があまりに自信満々なので、はだんだんと不安になって口を噤んだ。頭の隅から隅まで響き渡る獅子の低い声が、日頃から法螺ばかり吹いていることを知っていても、その可能性を頭から否定することができない。 先生は、和食が好きだと前に言っていた。優しい味がする、と。だからはイギリスの料理を先に勉強するよりも和食を極めようとしてきたし、自信作ができたら先生に食べてもらおうと、執務室に持って行ったりしていた。 もフィリップおじさんも同じものを食べているから、料理そのものに特に害があるわけではないのだろう。でも、イギリス生まれの先生の身体とは合わなかったのかもしれない。もしかしたら、美味しいという言葉も先生の気遣いで、本当は口に合わない料理に辟易しているのかも―― が悶々と考えを巡らしているのをしたり顔で見上げていた獅子は、不意に差した影に驚きの声をあげて首を揺らした。ダンダンという扉が叩かれる音で、は思考を中断した。 それと同時に、の左肩にポンと手が置かれる。 「私の大事な生徒をいじめないでくれって、何度も言っているだろう?」 背後から聞こえた声にが振り向くと、眉を顰めた男性が一人、立っていた。 相変わらずぼろぼろのローブに、あちこちはねた鳶色の髪。男性にしては少し細い首筋、年の頃はまだ青年といえるはずなのに、やや疲れの見える目元。 「……ルーピン、先生」 肩に手を置かれているために首だけで振り返ったまま、呟くように名前を呼ぶ。 先生はノッカーにやっていた視線をの顔に向けて、やっと表情を和らげた。 「、折角来てくれたのにすまないね。さぁ入って」 呻くような声を出して反対する獅子を一瞥で黙らせると、ルーピンは開いた扉からを中に入れた。 わしは嘘はついておらんぞ、という獅子のぶつくさ言う声が、扉が閉まる直前に聞こえた。 使いこまれた風情のある木の机と椅子の手前には、ソファが向い合せに一組、その間にローテーブルが置いてある。 いかにも執務室といった配置なのに、その部屋はまったく緊張感がなかった。 原因はやっぱり、装飾品に秩序がないからだと、は思う。 装飾品と呼べるのかどうかは分からないけれど、帽子掛けには明らかに帽子には見えない布切れがいくつもぶらさがっているし、部屋の隅の棚の上にも、奇妙な生き物のオブジェが所狭しと置かれている。 極め付けは、ふつう灰皿や菓子の皿がちょこんと置かれているはずのローテーブルの上にでんと構えた、巨大な水槽だ。あいにく今は何も住んでいない。でも、は水槽を見ると、そこに以前住んでいた生物のことを思い出して眉根を寄せてしまうのだった。 「紅茶でいい?」 「え、あ……はい」 お茶の支度をするために奥に引っ込んだルーピン先生の背中を見送ってから、は書類や本がたくさん積まれている大きな机の端に、重たい鞄を置いた。そして、その中から六冊の本を取り出す。 (あ。そうだ) ジャムを冷蔵庫に入れさせてもらおうと、軽くなった鞄から今度はジャムの瓶を取り出して、奥の部屋に向かった。 執務室から間続きになっている小さめの部屋は、つくりとしては台所と食事用のテーブルだけの質素な部屋だけれど、様々なものが溢れていて実際よりも狭く感じる。 は台所のある部屋に入って、赤いケトルに水道の水を入れているルーピン先生に歩み寄った。 「富美江さんから、林檎ジャムを頂いたんです。スコーンにつけて食べましょう」 「林檎ジャムか。それは美味しそうだね」 「きっと、とれたてですよ。蓋をしていてもいい匂いがします。ほら」 手に持った瓶を先生に示すと、先生は顔を近づけて匂いをかぎ、すぐに頷いて微笑む。 「本当だ。アフタヌーンティが楽しみだな」 簡易キッチンの隣には、一人暮らし用には少し大きめの冷蔵庫が備えられている。三割ほどしか埋められていない冷蔵庫のサイドポケットに瓶を置いて、扉を閉めた。スコーンを作るためのバターや牛乳は、一昨日買いそろえておいたから大丈夫だ。先生の部屋に、小麦粉がなかったことはないし。こういうところが、非常に先生らしいとは思っている。 冷蔵庫の前で含み笑いをしているの横顔に、ルーピンが思い出したように声をかけた。 「あぁ、忘れるところだった。さっき友人から美味しそうなチョコレートをもらってね。スコーンに混ぜてもいいし……そのまま食べても美味しいけど」 「そうですね」 先生の差し出した銀紙に包まれたチョコレートの塊を受け取りながら、は頭を働かせる。 「この量なら、混ぜて焼きましょうか」 「いいね」 嬉しそうに答えたあと、「ああ」と呟き、先生は突然表情を曇らせた。 「?」 のもの問いたげな視線に気がついて、苦笑いをこぼす。 「……紅茶の葉を切らしていたのを思い出したよ」 「あ、じゃあ私、家から取ってきましょうか?」 「いや、本当に空っぽだから、どうせなら買ってくるよ。留守番お願いできるかい?」 それはいいですけど、と頷くの頭を撫でてから、先生は椅子にかけていたコートを掴んであっさりと部屋を出て行ってしまった。 後に残されたのは、シュンシュンと音を立てているケトルと、チョコレートを持ったままぽかんとしているだけ。 (……仕方ない) 突然お邪魔した自分が悪かった、とため息をつく。 それでも、「留守番をお願い」と言われたことを思い出して頬が緩んだ。それだけ信頼されていると思えば、一人ぼっちにされたことなんて何でもない。 留守番は買い物に着いてこられないようにするための方便かも、という一瞬浮かんだ考えは頭の中で破り捨てた。疑心暗鬼で人を疑ってばかりの自分は、あまり好きじゃない。 それにしても、頭を撫でられるとは。まだ、先生の中ではただの生徒でしかないのかもしれない。無事に卒業もしたし、自分としてはかなりアプローチをかけているつもりなのだけれど。 「さて」 考え始めると日が暮れてしまいそうだったので、は手首に巻きつけていたリボンで髪を一つに束ね、腕まくりをして、スコーンの準備に取りかかった。 粉類をまとめてバターをすり混ぜたところで、チョコレートを包んでいた銀紙を剥がす。 「んー……。いい匂い」 すごく良質なのだろうか、顔をそんなに近づけていなくても甘い香りに包まれたような気分になる。自然と浮かんだ笑みをそのままに、まな板の上で塊を砕き始めた。 半分ほど砕くと、続きの間にまで届きそうなほど濃厚なチョコレートの匂いが漂い始めた。チョコレート好きの先生が持ってくるだけあるな、と心の中で納得する。 しかしここまでいい匂いがしていると、一かけらでも口に運んでみたくなるのが、人情というもので。 「……」 ちらりと執務室兼応接間の方に目をやって気配を窺ったが、まだ先生の帰ってくる様子はない。ちょっとくらいつまんでも、きっとバレないだろう。 たとえバレたとしても、そんなことで機嫌を損ねてしまうような人ではないと知ってはいるけれど、勢い勇んでスコーンに入れましょうと宣言した手前、一人だけ先に味見をするのは何だかマナー違反のような気がする。 (でも……、食べたい) 香りはいいけれど実はものすごく苦くて、とてもそのままお菓子には使えないような代物だったらどうする。毒見する必要があるのではないか。そう合理化して、はチョコレートの小さなかけらを手に取った。 思い切って口に放り込むと、豊かな甘い香りに似つかわしい、とろけるような口触りが舌を包んだ。 匂いが強烈だっただけに、胸やけがするほど甘いのかと思えば、そうでもない。普通の上等なチョコレートだ。 ああ幸せ、と思ったその時。 「……っ!?」 舌先に、電流が流れてピリピリ震えるような感覚がしては眼を見開いた。チョコレートはまだ喉の奥を流れようとしている段階だったけれど、驚いた拍子にごくりと飲み込んでしまった。 気がつかないうちに舌を噛んだのだろうか、と訝しむ暇もない。 震えはすぐに舌全体、指先、つま先に行き渡り、視界までぐらぐらと揺らいで霞んでくる。 膝が震える。 「な、に……」 倒れる直前、は中学生の時になったことのある貧血を思い出した。 そう、こんな風に、一瞬で真っ黒に染まって――。 衣擦れの微かな音がして、ケトルの注ぎ口から吐き出される白い湯気が、ふらりと一度ゆらいだ。 |