「あ、ちょっと」 「え?私ですか」 「そ。あんた、今切符落とさなかったか?」 「え…?あっ、無い…すみません、多分私です」 「いや。気をつけて」 「はい。ありがとうございました」 「じゃあ」 それきりの会話だったのに、妙に記憶に鮮明に残っているのは何故だろう。いつもの自分なら、名前を聞いていなければ(聞いていても同じような感じではあるが)三歩も歩けば印象でさえもおぼろげになってしまうはずなのだ。それなのに、無事に汽車に乗って落ち着いた今になっても、その人の顔は目に焼きついている。容姿がとても整っていたからか、自分と同じだけれど私と比べるなんて恐れ多いと思うほど綺麗な黒髪だったからか、はたまたその時の自分には命の次に大事だった、ホグワーツ行きの切符を拾ってくれた救世主だったからなのか。(話し振りからして、上級生か?)理由は定かでは無いが、の記憶には先程の会話と彼の顔が正確にインプットされていた。珍しい事に、胸がドキドキとしている。 早めに着くように時間を逆算してから出発したから、コンパートメントは空いていた。去年の初体験に比べれば、まぁまぁの船出なのでは無いかと思う。去年は時間を間違えて本当にギリギリに着いたのだった。一年生だからと笑って済ませられたが、二年生になった今ではそんな事は許されないだろう。ものすごく慎重にもなるってものだ。昔から、「生真面目」とはよく言われた言葉だった。 コンパートメントはまだ誰も座っていない所の方が多いくらいだった。一番後ろまで行ってはみたものの、どこに座ったらいいのかと目星も付けていなかったので、取り合えず、と言った感じで真ん中のあたりの部屋に腰を下ろす。後からたくさん人が来ると予想できるから、なるべく奥の方に座っておく方が賢明であろう。窓の外を見ると、家族から餞の言葉を貰っている生徒が多い。家族は一緒にこちらには来なかったので、は一人ぼっちだった。去年も一人で初めて外国へ来て、随分と苦労した。飛行機に乗るのも初めてだったし、ましてや外国なんてテレビや雑誌でしか見たことが無かったから、正直言って「楽しそう」という感情よりも「面倒臭そう」という方が大きかったように思う。年の割には冷めた子だと自覚しながら、私は窓の外の光景を観察していた。 汽車が出発するまでまだ三十分はある。お昼は持って来ていない。前の方の車両へ行けば、何か売っている物があるだろうと思い、は席を立った。荷物を置いているから席を取られることは無いだろうし、何にしろまだまだ席の余裕はある。わざわざ人の席を取ってまであのコンパートメントに座りたいと思う人もいないだろう。生憎泥棒避けの魔法を使えるほど、私の魔法は上達していないから。 「あの、サンドイッチか何かありますか」 去年一年ホグワーツで過ごした結果、何とか日常的な会話は難なくこなせるようになったのは、幸いだった。まだたどたどしい感は否めないが、日本の英語のテストとは違って、こういうものは通じれば良いのだ。こちらの言わんとしていることを分かってもらえれば、嬉しい。あちらも、日本人と英語が通じれば嬉しいと思っているだろう(これはホグワーツで知り合った親友が言っていた)。とは言っても、まだまだ見知らぬ外国人と会話をするというのは緊張をするものだ。という訳で、無難なサンドイッチを買い、席に戻った。売り子のおばさんは親切な人で、私が「サンキュー」とぎこちなく言うと、にこにこ笑いながら「サンキュー」と返してくれた。 ほくほくしながら席に戻っている途中で、色々な人とすれ違った。一年生の時に友達になった同じレイブンクローの女の子が、私が通り過ぎた時にコンパートメントから顔を出して挨拶してくれたり。寮は違えども、同じ授業を受けた際に意気投合した感じの良いスリザリンの男の子が、笑顔で手を振ってくれたり。英国とは言っても人間の温かみとか、そういったものはどこへ行っても共通なんだなと改めて思う。日本人だから珍しがられるかと思っていたが、外国人にしてみれば中国人も韓国人も日本人も皆同じような感じらしい。中国人もいるにはいるから、私が目立って注目視されることはあまり無かった。組分けの儀式の時でさえも、あまり自分が目立っているなんて思わなかった。皆好意的に、私を受け入れてくれたのだ。日本にいる家族に手紙を出す時、心から「皆良い人たちばかりです」と書けたのもそのおかげ。土産話がたくさんあって、両親や妹も喜んでいたし。 「じゃない!」 「あ、スティ。久し振りね」 「えぇ、元気にしていた?」 「うん。あなたも相変わらず元気そうね」 「はどこのコンパートメント?お邪魔してもいい?」 「もちろん。こっちよ」 通路の向こう側から歩いてきていた親友のスティファニーを促しながら、私は自分のとっておいたコンパートメントへ向かった。道すがらは彼女と休暇中に起こった出来事を話し合い、大いに盛り上がった。家に戻ったらいつの間にか庭に大きな犬小屋が取り付けられていて、何事かと思えば冬から買い始めた愛犬のマリーがかなり大きくなってしまったから増築しなければならなかったらしい、とか(ちなみに休暇が終わる頃には彼女より大きくなったらしい)。あなたの方はどうだったのと聞かれて、「お盆にね…」と話し始めると「待って、『オボン』って、何?」と早速中断されてしまったりとか。日本の季節習慣みたいなものよ、と熱心にスティファニーに説明すると、分かったのか分かっていないのかそれこそ分からないが、ふんふんと真剣に聞いていたと思ったら「今度マリーに会いに来て!」といきなり誘われたりとか(それはそれでとても嬉しかったりするのだ)。 初めて会った時もこんな感じだった。同じ寮で同じ部屋だから、初対面だが親近感が沸いて、私も積極的に話そうとしたことを覚えている。彼女とお互いの母国の事や、家族構成について寮の天蓋ベッドに寝転びながら話しているときは、長旅の疲れや緊張や不安を忘れる事が出来たのだった。そんなこんなで親友になり、私は彼女のための土産話を用意しておこうと夏休み中も考えていた。 「浴衣って言うものを着てね、お祭りを回ったりするのよ」 「浴衣?日本の衣装なの?」 「えぇ。少し歩きづらいけれど、柄がとっても綺麗なの!」 「私も一度見てみたいわ。今度、写真を撮って見せてくれない?」 「もちろん良いわよ。…実を言うと、あなたがそう言うと思って写真を用意しておいたの」 「まぁほんと!わぁ嬉しい…それじゃ、お礼に私はクリスマスにを家に招待するわ」 「お邪魔じゃない?」 「家族みんな、私がのことばかり話すから会いたがってるの。来てくれる?」 「ありがとう。それじゃ、お邪魔させてもらう事にする」 「楽しみね」 まだ九月一日で、夏休みが終わったばかりだというのに、もう冬休みの予定について話し合っている私達はさぞかし滑稽だったろうが、気にしない。スティは本当にウキウキワクワク、浮き足立っている。それにつられて私も笑顔になっていると、ようやくコンパートメントに着いた。良かった、誰も席を取ったりなんてしていない。来る途中に見てみたけれど、まだまだ空いている席はいっぱいあったから余計な心配は要らなかったかも知れない。 個室に入って先ほどの続きのお喋りを楽しんでいると、不意にコンコンとドアがノックされた。まだはいともいいえとも言っていない内にドアがガラガラと開いて、一人の眼鏡の男の子が入ってきた。私と、向かいに座っているスティファニーは視線を合わせて、そしてまた同時に彼に目を向けた。くしゃくしゃの黒髪に眼鏡。間違いない、あの人だ。しばらくきょろきょろとしていた「あの人」は、唐突に私と目が合うとにっこり笑った。 「君たち、暇かい?」 「え?え、えぇ…」 「そう。…突然なんだけど、かくまってもらいたいんだ」 「はい?」 訳が分からず聞き返すと、「話は後でね」と言いながら自分のトランクを席の下の開閉ボックスに忙しなく突っ込んだ。それから私達に向き直ってまたにこりと笑い、戸惑っている私達に向かって言った。 「黒髪のハンサムな奴が僕を探しに来たら、窓の外へ逃げたって言ってくれるね?」 それは「言ってくれるかい」でも「言ってくれると嬉しいな」でも、ましてや「言ってくれますか?」でも無い、明らかに命令口調だったけれど、私と親友は彼の気迫に只ならぬものを感じて、思わずうんうんと頷いてしまった。ここでいいえと言ったら恨まれそうだったし、もう彼は私の座っている席の下、彼が荷物を入れたボックスに潜り込もうとしていたから、どちらにしろ「いいえ」と言っても効果は無かったと思われる。第一私には、学校で超がつく有名人に頼みごとをされて、「いいえ」と言える度胸なんて、最初から備わっていないのだ。それは親友も同じだと思う。 「かくまう、って…基本的にどうすればいいのかしら」 「私達は何も知りません、って顔をしておけばいいのよ。多分」 「そうね。出来ている?」 「バッチリ!」 私達が『私達は何も知りません』という顔を練習している時、いきなりコンパートメントのドアが大きな音をたてて勢い良く開いた。びっくりして文字通り飛び上がってしまったけれど、今はそれどころではない、と自分に言い聞かせて深呼吸し、落ち着きを取り戻そうと努力しながら、はずかずかと入ってきた人物をこっそりと見た。 長身だががっしり、という感じではなく、あえて言うならば頼りになる「紳士」という感じの体つき。タキシードが似合いそうだが今は普通のTシャツにジーンズと言った服装だ。先ほど眼鏡の彼から「ハンサム」という形容がなされたが、それは間違いでは無い。けれど、「ハンサム」ではなく「超ハンサム」だ。そして、黒いツヤツヤとした髪をサラリと流している、「超ハンサム」な突然の侵入者は、駅で落とした切符を拾ってくれた、救世主そのものなのだった。そしてその彼は、私達の姿を認めると唐突に口を開いた。 「ここに、くしゃくしゃの黒髪で眼鏡をかけた馬鹿っぽい奴が来なかったか?」 「……(馬鹿っぽいって…仮にも親友に、失礼な…シクシク)」 「……(この人はさっきの!もう一度お礼を言うべきかしら…?でも何も知らない振りだし…)」 「……(こ、この人がまさか…、噂に聞くシリウス・ブラック!?)」 「おい、あんたら…聞いてるのか?」 私と親友(と姿は見えていないがメガネの彼)は、それぞれに思いを抱いて彼をじっと見つめていた。一人は親友の暴言にショックを受けて身動きをとろうにも体が動かなかったし、一人は助けてもらった恩人にお礼を言うべきか否かで心の中で押し問答を繰り広げていたし、一人は一年生の時から噂に聞いていた、全校生の憧れの的である《悪戯仕掛け人》と話せるチャンスかも知れないのに、あまりにもハンサム過ぎてびっくりして口が動かないので、自分の口に「動け!動け!」と命令するのに必死だった。 そんな女子(+男子一名)の心中を知ってか知らずか、ハンサムな黒髪の彼は、はぁ、とため息を一つついてコンパートメントから出て行った。どうやらここにはジェームズはいないようだ、という呟きが耳に入って、は我に返った。そうだ、『私達は何も知りません』という顔をしなければ! 「わっ、私達は何も知りません!」 そう叫んでしまってから、もうここには弁明すべき相手がいない事に気が付く。スティファニーが呆れて、彼女の頭をはたいた。「、大丈夫?ネジ、取れてない?」…自分も固まっていたくせに、良く言う。がぼそっと言うと、自分の足の下からあははと笑い声が聞こえた。驚いて下を向くと、眼鏡の彼がにこにこと笑いながら座席の下から這い出てくるところだった。 「ありがとう。助かったよ」 「…私達、何もしてませんが」 「いや、大いに助かった。そうだ、お礼に百味ビーンズをご馳走しよう」 「あの、ですから私達何もしてませんってば」 「でも買いに外に出ると奴に見つかりそうだから、もうしばらくかくまって欲しいな」 「あ、はぁ…(人の話聞けよ)」 「ところで、君達名前は?」 「あ、あの名乗るほどの者では…」 「あっ!はいっ、スティファニーと申します!こちらは」 「そうかい。……あ、あれはっ!」 「「えっ!?」」 「すまない。急用が出来たのでこれで失礼するよ。このご恩は一生忘れない!」 そう言って、さながら休日の朝にやっている日本の特撮アニメのヒーローのように、くしゃくしゃの黒髪に眼鏡の彼は開け放ってあったコンパートメントの窓から自分のトランクを乱暴に振り回して外へ去っていった。駅の構内に、知り合いか誰か見つけたのかもしれない。あるいは、先ほどのハンサムな人に見つかりそうになったとか。どちらにしろ、彼はもうこのコンパートメントにはいない。とスティファニーはしばらく呆然と彼が消えていった窓の外を見ていた。 やがて私達は何事も無かったかのように先ほどのクリスマスの予定を話し合い、何事も無かったかのように笑いあった。私は先ほど買ってきたサンドイッチとミルクティー(パック入り)を完食し、そうこうしている内に車内はにわかにざわめき出す。生徒達は家族との別れを終え、車内に集まっている。もうそろそろ発車の時刻かな、と思い腕時計を見ると、案の定汽車の発車時間ピッタリだ。そして長々と汽笛が鳴り、とうとう汽車はゆっくりとその重い体を滑らせ始めた。 |