Rosmarinus
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ティーカップを大きく傾けて、シリウスは最後の一滴を飲み干した。ジェームズの右手は制服の襟元をパタパタと広げて、どうにか風を通そうと健気な努力を続けているが、うんざりした表情に変化が訪れる気配はない。 水着でも着て湖に飛び込めば暑さも和らぐだろうけれど。可哀想なことに僕たちは何でもかんでも既に経験済みだったので、水から上がった後の同じ乾きを思い出すだけで、このソファから立ち上がる元気などなくなるのだった。 「……暑い」 ちなみに、シリウスが「暑い」と呟いたのはこれで三回目だ。その言葉を聞くだけでもっと暑くなるような気がするから遠慮してもらいたいのだが、指摘しようものならただでさえ苛々しているシリウスの神経を逆撫でしそうなので、僕はじっと黙っている。 カップに三分目くらいまで入っているミルクティは既に温くなっている。冷めた紅茶は渋くて好きではないのだけれど、喋るのも億劫なのだから淹れ直す気力なんてあるはずもない。 「あーあ」 シリウスが不意に呟いたので、僕とジェームズは彼を見た。この場所に三人で座ってから結構経つけれど、彼が「暑い」以外の言葉を放つのは初めてだったから。 「どうしたんだい?」 相槌を打つとしたら自分しかいない、ということを承知しているジェームズが、テーブルの上に置いてあったプリントの束を手に取ってあおぎながらシリウスに目をやった。 「……いや。こうも暑いと、悪戯を考える気も起こらないと思っただけだよ」 悪戯は、そりゃあやってる側からしたら、スカッとするかもしれない。 でも、この暑い日に彼らに悪戯される人のことを考えてみれば、シリウスがそう思ってくれてよかったんじゃないかとすら思う。第一、ほとんど目付役のような形で一緒に行動するはめになる僕だって、今は彼らの悪巧みに付き合いきれる自信はない。 「夢中になって頭を働かせると暑さも忘れられるかもしれないよ。シリウス」 「じゃあお前が考えてくれ」 シリウスは頭を軽く振る。「俺は耐えるだけで精一杯だ」 「冗談。僕だってそんな元気ないよ」 彼らの話を聞いているふりをしながら、僕は全然違うことを考えていた。 (……どうしてるかな) 朝から見ていないし、部屋にいるのだろうか。リリーの姿も見かけないところをみると、二人そろって湖にでも行っているのかもしれない。少しでも涼しいところにいたいからと、学校の生徒の多くは湖の近くの木陰に避難している。もちろん僕たちのように、そこへ辿りつくまでの強い日差しすら嫌って、こうして寮に閉じこもって耐えている生徒もいる。 (朝早くなら会えたかもしれないのに) 休日だからといって寝坊をしてしまったのが悪かったのか。 僕は再び、その寝坊の原因であるところの悪友二人に視線をやった。いつもは有り余ってこちらが困るほどの元気が、今日は見事に萎んでいる。 まあ、チェスが面白くてなかなかやめられなかったのは自分も同じなのだけれど。 もともと側でレポートをやっていた僕を「面白いから」といって引っ張り込んだのはシリウスだが、彼が僕を誘ったのはジェームズが強すぎるからで。たぶん、強敵のジェームズとの真剣勝負に疲れたときにでも、初心者の僕なら気楽に戦えると思いついたのだろう。 昨日は初歩のルールを覚えるところから始めたとは言え、シリウスに負け続けたことを思い出して、悔しい気持ちが少しだけぶり返すのを感じた。 「シリウス、チェスしない?」 「は、はあ!? そんな元気ない、っての」 案の定すぐに渋面を作るシリウスに、僕は微笑んだ。 「早く上達して、君のちゃんとした練習相手になりたいんだよ」 「ああ、いいねえ。リーマスの笑顔は涼しげで」 もっと笑って、と嬉しそうに横から口を出すジェームズとは対照的に、シリウスは苦虫を噛み潰したような顔をして黙りこんだ。 これは、皮肉が伝わっている証拠だ。 「……分かったよ」 「あ、ボードは僕が出すよ」 杖を出してティーセットを片付け、代わりにチェスボードを机の上に置く。 「じゃあ、僕はゆっくり観戦させてもらおうかな」 口では観戦と言いつつも、ジェームズは僕の隣に来て、昨日と同じようにここはこうした方がいいとか、この手が有効とかアドバイスをしてくれるつもりらしい。白状すると、昨日なんとか勝負が形になったのも彼のこのアドバイスのおかげなのだ。 学年でも一、二を争う秀才であることは周知の事実だが、それを抜きにしても、彼の考える悪戯にすごく計画性があることとチェスが強いことは、もしかしたら深く関係しているのかもしれない。 つまりジェームズは、こと自分の興味のある事柄に関しては、ひらめきや計算能力の類がずば抜けている。 「僕の顔に何かついてる? リーマス」 「……いや。何でもないよ」 いくら羨ましいという気持ちが強くても、妬ましいとか彼の人生を代わりに送ってみたいとか、そういうことを思ったことがないのは我ながら不思議だ。 僕はジェームズから対戦相手へと目を戻した。こちらが最初の一手を打ったのに、まだ彼は自分の駒に命令を下す気配がない。どう試合を運ぼうかなど、僕相手にそう悩むことでもないだろうに。 「……」 「シリウス?」 シリウスは自分の駒をぼんやりと見下ろしている。 僕は一目見ただけで、彼が何を考えているのか分かってしまった。 「えい」 「いてっ」 彼らの言葉と表情で、ジェームズがテーブルの下でシリウスの足をつついたのだと何となく分かって、僕はさっきから堪えていたため息をついた。 「そんなに気になるなら、探しに行けば?」 膝に立てた手の上に顎を乗せて、シリウスを見る目を細める。 自分の気持ちを考慮するならばこのまま見過ごす手もあるけれど、いつまでも腑抜けの状態でいられたらこちらも堪忍袋の緒が切れそうだ。 「な、何のことだよ」 「のことだよ。言っておくけど、君の頭の中は僕たちには筒抜けだから」 僕の言葉に、隣のジェームズがぷっと吹き出した。 「なあリーマス、お前最近俺に対してキツくないか?」 「そんなことないよ」 口元だけで笑みを作って言うと、シリウスが片眉をひくりと持ち上げて「そうか……?」と呟いた。 「……え?」 「どうかした、リーマス?」 ようやっと現実世界に帰ってきたらしいシリウスが最初の駒を動かしたとき、僕はリリン、という小さな音を聞いた。ジェームズもシリウスも、チェスボードに意識を向けていて聞こえなかったようだ。 ジェームズの訝しむ視線を感じながら音源を探して辺りを見回すと、一人の生徒の姿が目に入った。 「……」 「ん?」 僕の口から漏れた言葉に、シリウスが小さく反応した。 「ほら。あれ」 何となく教えたくない気持ちになりながらも、僕は談話室の開け放たれたバルコニーの扉の方を指差した。ジェームズとシリウスが同時にそちらを向く。 「本当だ、だ」 彼女は扉の上側に向かって、かなり必死に背伸びをしていた。 「あいつ、何やってんだ?」 言うが早いか、シリウスはソファから立ち上がって彼女の元へと足早に歩いていく。さっきまであんなに気だるそうにしていたのに、どこからそんなエネルギーがわいてくるのだろう。――なんて、そんなこと僕にも彼にも分かりきっているけれど。 「……単純な奴って、時々憎らしいよ」 シリウスの後ろ姿を見ていると、思わず心の中の呟きが声に出た。 「確かにね」 でも、実は僕も結構単純なんだよね。ジェームズが隣で笑っている。 「そうかな?」 「ああ。好きな人が幸せそうだったら、僕も幸せだし。傷ついていたら、悲しい」 ジェームズは、僕の方をまっすぐに見て微笑んだ。 (……とっくにばれてるのか) 彼になら、気づかれていても不思議ではない。むしろ、知っていてくれて嬉しいとすら思う。 けれどまだ僕には、自分の中に渦巻く黒っぽい色をした感情を受け止めるのは、少し難しいみたいだった。 「切ないってこういうことを言うのかな、ジェームズ」 「そう。恋って切ないものだよ」 数年前から一人の女の子にアプローチを続けているジェームズの言葉には、妙に説得力があって。 僕はまた、喉の渇きを思い出した。 「おい、何やってんだよ?」 「え? うわっ……あ、シリウス」 思い切り背伸びしていたところに肩を叩かれたものだからバランスを失って、後ろにまともに倒れかけたところを抱きとめられた。声で分かっていたけれど、一応確認しなければと思って首だけで後ろを振り返ると、予想通りの人がそこにいた。 「ご、ごめんなさい」 とりあえずこの体勢はまずい、と素早く身を離すと、彼は少し残念そうな顔をする。 「何ですかその顔は?」 「いや。もうちょっとくっついていたかったと思っただけだよ」 (……いくら、こ、恋人同士だからといって、白昼堂々抱き合うわけには) というかそれ以前に、「くっついていたい」だなんて、暑いとか感じないのだろうかこの人は。しかもそんな聞いているこちらが照れて顔も見られなくなるような台詞を、よくもまあ抵抗もなしにサラリと言えるものだ。ストレートな愛情表現にあまり慣れていない私にとっては、刺激が強すぎる。 「そ、そうですか」 「はあ……まぁいいか」 「え?」 「ところで、何してたんだよ? そんなところで」 目まぐるしい展開について行けていない私を見て、シリウスはちょっとだけ笑って言った。 「そこで背伸びしてたろ?」 「あ、そうなんです。これを窓につけたくて」 「……何だ、これ?」 もしかして、初めて見るものなのだろうか。私の手の中にあるものを、彼は首を傾げて見つめている。 「風鈴ですよ」 「フウリン」 「風に揺られると音が鳴るんです。日本の夏の風物詩です」 「へえ」 左右に揺らして音を鳴らしてみせると、「涼しげだな」と彼は頷いた。 ここのところあまりにも暑いから、少しでも寮の生徒たちの気休めになればと、自分の部屋の窓につけていたものを持っておりたのだ。しかし、一番風の多く入る談話室のバルコニーは背が高くて、とても届かなかった。 「つけてくれません? そこの、端の方でいいので」 「……いいけど。条件が一つ」 何ですか、と私が問う前にシリウスはにっこり笑って言った。 「そろそろ敬語やめてくれないか?」 「え」 「同学年だろ。堅苦しいし、仮にも付き合ってるんだから」 「あー、何か顔赤くしてるよ、」 僕の淹れなおした紅茶を啜りながら、ジェームズが残念そうな声をあげる。彼は、僕が次の手を考えている間、ひっきりなしにシリウスとの方を見ては状況説明をしている。 シリウスはもう戻ってこないと判断して、既にチェスの試合は僕対ジェームズに変更されていたけれど、ジェームズは僕の隣から移動しなかった。駒に命令を下すのはどの場所にいてもできるが、単に移動が面倒くさいからという理由で、策を練りづらい反対側に座ることはまずあり得ない。 「あれ、今度はシリウスが背伸びしてる」 「……」 僕は無言で駒を見つめながら、唇をきゅっと結んだ。 ジェームズの一挙一動から、彼にとても気遣われていることがありありと分かるので、何だか複雑な気持ちになる。 同情とか憐れみではなく、それが彼が出会ったときからいつでも僕に向けてくれている優しさの一部だと知っているから、側にいようとしてくれることはありがたいことでもあるのだけれど。でも、優しさを必要としていると思われることには、やっぱり少しだけ傷ついてしまう。 (……身勝手だ、僕は) 気持ちを落ち着けようとローズマリーの紅茶に口をつける僕を、ジェームズがじっと見ているのが分かる。 「別に報告しなくてもいいよ」 「そう?」 「うん。……ありがと、ジェームズ」 温かな優しさに、少しだけ泣きたくなった。そんなこと、誰にも言えない。 でも、言わなくても分かってくれる、大切な友がいる。 今はこれで十分だ。 心からそう思えたことにほっとして、思わず笑みがこぼれた。 |