私は頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。人前ですれば品位を疑われるようなこの行為も、今は幸い誰も周りにいないので堂々と出来る。ただ油断しすぎて、左手に持っていたコーヒーのカップを落としそうになってしまったが、クィディッチで養った反射神経でなんとか落とさずに済んだ。壁に掛かっている時計を見れば、まだ朝の七時だ。夜型の私が集中できる時間帯ではないことは分かっている。でもどうしても(ある理由の所為で)目が覚めてしまって、何もすることがないので仕事をしようとパソコンの前に座ったのだけど、やはり頭がうまく切り替えられていないのか頭の自由帳は真っ白なまま。アイデアの「ア」の字も浮かばない。当てもなくキーボードの上に指を置いてみても、するすると表面を撫ぜるだけでキーを押さない。今日は駄目だ、と見切りをつけてはパソコンの電源を切った。ウィーンウィーン、という機械の音が無くなって、部屋の中は余計に重たい沈黙で包まれる。文字が浮かばないのも、心臓がずっとどきどきしていることも全部、生理の所為にしてしまえればいいのに。意識しなくてもすぐ傍に置いている電話の子機へ行ってしまう視線を戒めつつ、ぐいとコーヒーを飲み干した。 call me プルルルル、と電話が鳴った。 私は心臓が跳ね上がったのを自覚しながら、ゴホンと滅多にしないような咳払いをして、ぐしゃぐしゃなままの髪を素早く手ぐしで整え、深呼吸をしてから、ゆっくりと受話器の通話ボタンを押した。自分の心臓の音がすごく大きくて、相手が何を言ったのか分からなかった。もうひとつだけ大きな深呼吸をして、私は口を開いた。今日始めて声を発するからって、掠れなければいいけれど。 「あ、あの、もしもし」 「もしもし、こちら編集部ですが、さんですか?」 「え?」 「もしもし?」 「……」 「…さん?喜田川玲子です」 「……えぇ、喜田川玲子さんですね」 「…大丈夫ですか?」 「大丈夫です。喜田川さんの言いたいことが分かっているので電話を切ります」 「えっ、えっちょっと待ってくださいよ!」 「何ですか」 「朝っぱらから『締め切り一週間前ですよ』なんて電話しませんって」 「…何ですか?」 「装丁を担当してくださる会社がね、次回作にも是非起用して欲しいって頼んできたんですよ!」 「……ふーん…」 「ええっ、そんな反応!?」 「悪いですけど、今それどころじゃないんです。忙しいんです。失礼します」 「まっ待って待って!」 「何ですか、もう」 「彼氏?」 ブチッ、と通話ボタンを千切るように押した。灯っていた赤い光が消えて、また静かになる。はぁ、とため息が出た。とんだフライングだ。勇み足気味な自分も笑えるけれど、もっと可哀想なのは喜田川さんだ。何も今、このタイミングで電話してこなくてもいいのに。頭を冷やすために熱いコーヒーを飲む。 改めて冷静になった頭で考えると、やっぱりさっきのはちょっとやりすぎたかな、と思われたので、今度編集部へ行くときはひよこ饅頭でもお土産に買って行こうと思いついて、それで満足した。「次回作にも、か…」何とも気の早いことである。今書いているシリーズはまだまだ始まったばかりなのに、次の作品のことまで考えているなんて。なるほど世間は個人を待ってはくれない。 コーヒーのお代わりを淹れようと椅子から立ち上がったとき、プルルルル、とまた電話が鳴った。一瞬ドキッとしたけれどさっきみたいにひどく落胆するのは馬鹿らしいので、もう一度椅子に座って、今度はすぐに通話ボタンを押した。何でもない、何でもない。ただの電話。 「もしもし」 「あ、?」 「シ、シリ…?」 「そう。シリウス」 ごくん、とコーヒー味の唾を飲み込む。フライングでも何でもなく、喜んでいいのだ、と思う。 「…シリウスっ、お、おはよう!」 「おはよう。元気にしてたか?」 「う、うん元気にしてた。久しぶりだね、えーと、あの」 「何緊張してんだよ」 「だって。話すの、久しぶりだし…」 「そうだな。一年ぶり」 「ぴったり、一年ぶりだよね。去年もシリウス、電話してきて」 よく覚えてるな、と笑いながら言う声が聞こえて、私は顔が熱を帯びてきていることに気が付いた。忘れるわけないじゃない、と何でもないように笑う勇気が私にはなくて、ただ「うん」とだけ答えた。そう、去年もシリウスは同じ日の朝に電話してきた。国際電話はお金がかかるのに、長いことたわいもない話をしていた。ジェームズが犬に噛まれただの、リーマスの甘い物好きはまだ治らないだの、そんなことばかりを話して笑いあったのを、昨日のことのように覚えている。何故シリウスが今日電話してくるのかも、私は知っている。 「…今年も、皆元気?」 「元気元気。にも手紙行ってると思うけど、リリーとジェームズに子供が出来たし」 「本当に、見てみたいわ。今は行けないけど」 「仕事が忙しいんだろ?暇が出来たらまた遊びに来いよ」 「うん、行く」 「去年もそう言ってたけど結局来なかったろ。寂しがってたぞ、皆」 「シリウス、私が一番行きたいと思ってるの」 「はいはい、そうだよな」 「そうよ」 二人で笑い合って、それから少しの間沈黙があった。シリウスは私にどのタイミングで言おうか悩んでいるところだろうし、私は私でどのタイミングで言われるのだろうと少しドキドキしている。シリウスには悪いけれど少しわくわくもしている。だって、あの女慣れしていそうな彼が、私にはそのテクニックを使えずにいるのだ。ホグワーツ時代もそうだった。私はそれがちょっと、否すごく嬉しくて、いつもそれで彼をからかったものだ。 ホグワーツにいた頃は、いつか今を思い出して寂しくなるんだろうな、と想像していたけれど。実際はそうでもなくて、溢れそうな思い出に浸ることがとても楽しく、暖かく感じられる。 シリウスの声がまた聞こえた。 「………誕生日おめでとう、」 「ありがとう、シリウス。私、頑張るね」 「あれは絶対彼氏だったわよ、彼氏。だってあんなにピリピリしてるちゃん見たことないもの。多分デート中だったんだわ」 「喜田川さん、昨日七時に電話かけたんでしょ。普通そんな朝からデートなんてしますかね?」 「まぁっ!てことは朝帰り!?」 「彼氏ではありません(朝帰り、って私の家なんですけど)」 「わ、さんいつからいたんですか!」 「『あれは絶対彼氏』あたりからです。喜田川さん、原稿です。それと、ひよこ饅頭」 「えっ、あ、ありがとう」 「今度からいつも、ちゃんでいいですから」 |