「おい」 後ろを振り返ると、先程まで隣を歩いていたはずのシリウスがいつの間にか僕よりもずいぶんと後ろにいて、渋面をしていた。 その周囲を、立ったままの彼をよけるようにして生徒の波が流れていく。ジェームズはこの授業を取っていないから、辺りを見回しても当然彼の姿を発見することはできない。その代わり、見覚えのない女生徒たちの群れがシリウスの顔をちらちら振り返りながら僕の脇を通り過ぎて行った。 「……何? どうしたの、そんなところに突っ立って」 「授業が終わったら医務室行け、って言ったろ」 シリウスは眉根を寄せたまま近づいてきて、僕の腕を掴んだ。 「今から行くぞ。ほら」 「大丈夫だよ、痛くないし」 「そんなの当てになるわけないだろ」 お前は嘘が得意なんだから、とシリウスは言った。 彼の言葉が、自分で思ったよりも胸に痛くて、僕は思わず俯いた。 「……あ、いや別に、お前が嘘つきって言ってるわけじゃなくて」 「実際、君たちには隠し事をしていたから。僕に釈明の余地はないよ」 「リーマス」 シリウスの咎めるような声に、何故だか僕は、虚しいような不甲斐ないような、とにかく目をつぶって耳をふさいでしまいたいような、そんな気持ちになってしまった。けれど本当に彼の前でしたことといえば、愛想笑いに似た微笑みを浮かべて、腕を掴んでいた彼の手を振り払うことだけだった。 「……分かった。行ってくる」 医務室に向かって歩きだしても、シリウスは着いては来なかった。 確かにその日一日中、僕とシリウスは仲たがいをしていた。朝、毎月の『恒例行事』で具合を悪くしていた僕を見た、彼の開口一番の「医務室で休め」という言葉を、僕が鰾膠もなく撥ね除けたからだ。 それからずっと、彼は僕に何か言いたそうな、そして不満そうな顔を向けてきたが(その中には多分に『心配』も混じっていたのだろうけれど)、それらを僕は徹底的に無視していた。確かにいくらかの身体の痛みと吐き気はあったが、それはこの時期になるといつものことだ。 何より、保健室でずっと眠っているよりも、授業に出たりみんなと食事を共にしたりする方が、自分が人間であるということの実感を持てると、経験的に知っていたから。 僕とシリウスが同じくらい不機嫌なので、ジェームズは少し居心地が悪そうだった。 (……悪いことをしたかな) ジェームズに。そしてシリウスにも。 彼ら二人が僕を見る目の色には、嫌悪感や忌避感がない。そのことに、幾度となく救われてきたというのに。 ただ、人は他者の内面を全て知ることはできない。僕がどれほど自分を蔑んでいるか、シリウスに理解してもらおうと思ってもそれは無理な話だ。シリウスの心の奥底の闇を、彼が最も心を許した相手であっても、完全に理解することはとても難しいのと同様に。 自分には深く考えすぎる癖がある、ということは分かっている。 ――もっと自分を大事に思うこと。 それが一番難しいなんて、誰かに分かるはずもない。 医務室の扉をノックしても、返事はなかった。 僕は躊躇わず扉を開けて、中を覗いた。 「マダム? いますか?」 ベッドの並ぶ部屋にいなかったので、事務室の方へ声をかけると、「はいはい」という返事が聞こえた。 その声に一瞬だけ感じた違和感は、現れた少女の姿で証明された。 「はいはい、はいはい。何の怪我?」 少女、というよりは女性と言うべきなのかもしれないが、その声が外見に似合わず高く透明なことと、何故なのかよく分からないがピンクのギンガムチェックのエプロンをしていること、この二つの要素を無視して彼女を判断するのは難しかった。 彼女は、元気よく小走りで事務室から出てきて、扉を半分開けたまま固まっている僕を目にすると、部屋の内側のドアノブに手をかけて突然ぐいと引っ張った。 当然、大きく開かれた扉に引きずられ、バランスを崩して転びかけた。 「あら、ヒヨワ」 なんだって、と反論したいところだけれど、今の自分を表すのにそれ以上ぴったりな言葉はないのだった。 しかし、医務室を訪れる生徒のバランス力に期待する方が間違っていると思う。 「……少し貧血気味で」 「ふむ」 まだ落ち着いていない心臓を押さえながら要件を切りだすと、女性は短くそう言ったきり僕をしげしげと観察し始めた。医務室を訪れる生徒なんて、そう珍しくもないだろうに。 というか、この人は本当にこの医務室の人なんだろうか? ここにいるということは、マダムが代理を頼んだということなんだろうけれど……などと、考えている間にも彼女の視線は僕の頭から靴先までをじっくり見まわすために動き回っていた。 僕が頭の中で、この人は実は幽霊で……という思いつきを膨らませようとしたとき、ようやく彼女は目以外のものを動かした。 うふふ、と口元に手を当てて笑ったのである。 僕は当然、訳が分からず首を傾けた。 「ああ、いや、失礼。……で、何だっけ? 病気?」 顔色が悪いわね、という言葉を聞いて、僕は自分がここに来た目的を思い出してハッとした。 「貧血で。吐き気もするので、薬を貰いたいんですが」 「……じゃあ、とりあえずそこの椅子に座ってくれる?」 「はい」 彼女は体温計をどこからか取り出して、僕のシャツのボタンを三つほど勝手に外して脇に突っ込みながら、明るく微笑んで言った。 「初めまして、かしら。私はっていいます。今、魔法医療の研修中なの」 「研修中……」 見た目は僕と同い年に見えるのに、少なくとも僕より四つは年上ということか。 しかし、研修中にしてはえらく確信めいた手つきで色々なものを扱っている。単なる豪気なのかもしれないけれど。 僕の訝しげな視線をかわすように笑みを深くして、彼女は一通りの検診をてきぱきと、またたく間に終わらせた。 「体中に痣や生傷があるのはなぜ? ……ああ、クィディッチね」 彼女は一人納得したように掌をパチンと合わせた。 僕の身体には、クィディッチに耐えきれるような筋肉などどこにも見当たらない。実際のクィディッチを見たことのない人ならいざ知らず、この人は僕より年上だというし、恐らくホグワーツの卒業者だ。寮対抗のクィディッチを観戦したことくらいあるだろう。 それにこの人はさっき、僕のことをひ弱と言った。――つまり、僕の事情を知っているか、マダムに匂わされていたのだろう。 薬棚から薬を出して戻ってきた彼女に、僕は尋ねた。 「……マダム・ポンフリーは、今日はいらっしゃらないんですか?」 「ええ、昼から街に出かけて行ったわ。あ、これは水で飲んでね」 言いながら、彼女は薬を僕に渡し、杖を振って水の注がれたコップを僕の目の前に出した。 「ありがとうございます」 「……ねえ、君、名前は?」 「リーマス・ルーピン」 「リーマスか。リーマスね、うん、了解」 はあ? と言いかけたのをぐっと堪えて、僕は「え?」という顔を作るに留めた。 何が『了解』なのかという疑問は、薬を飲む作業に気を取られて忘れてしまった。 僕が薬を飲んでしまうと、彼女はエプロンのポケットから銀紙に包まれた丸いチョコレートを取り出して僕に差し出した。 「苦かったでしょ。はい、口直しどうぞ」 「あ、ありがとうございます」 薬のあとに甘いものを摂取するのは果たして適切なのだろうか、ということは、仮にも研修中の彼女に準じてこの際置いておくことにした。飾り気のない包装を剥がして口に放り込むと、いくらか気持ちが落ち着くのを感じた。 シリウスはもう夕食を食べ終えただろうか。口喧嘩くらい、ジェームズともシリウスとも何度かしていたけれど。今回はちょっと根深い。喧嘩の険悪な雰囲気が長く続く、というわけではなくて、根本的な解決に時間がかかる、という意味で。 シリウスとの先程の口げんかを思い出して表情が曇った僕を、彼女がじっと見つめている気配がした。 「……あの?」 視線の意味を問うように呼びかけると、彼女は「愛じゃ」と囁くように言った。 「は?」 「――愛じゃよ。って、校長なら言うかしらね」 確かに、校長が言いそうな言葉のランキングを作成したとして、上位に来そうな言葉ではある。 「おおかたの辛いことはね、誰かを愛し、愛されることで、癒せるの」 「……」 「ただし、それは真実の、心からの愛じゃないといけない」 「……はい」 「君は素直だね。素質があると思う」 何の、とは尋ねられなかった。彼女が僕の脇から体温計を取り出して、「これくらいならさっきの薬で大丈夫でしょう」と頷いて、僕に寮に帰ってすぐ休むよう言ったからだ。 「またおいでね、リーマス」 僕が医務室を出て行く間際、彼女がそう呟いたような気がした。 「あ」 あ、とお互いにそれだけを口にした後、同時に視線を下げた。 談話室の入口で、ちょうど夫人に合言葉を言おうとしたときに、中から扉が開いてシリウスが出てきたのだ。 言うべき言葉は決まっていた。寮に戻る道すがらそればかり考えていたから。 でも、いざとなると口からうまく言葉が出てこないのは、何故だろう。 「……シリウス」 視線を太った夫人の足元辺りにぼんやりと据えて、扉を出て歩き出そうとしたポーズのまま固まっているらしい相手の名前を呼ぶ。 「ごめん、呼びとめて。何か用事?」 「ああ……いや」 シリウスはふと笑って言った。 「お前の様子を見に行こうと思ってたところだから。薬飲んだか?」 「うん。医務室に、変な女の人がいた」 「変な女?」 変だけど、かなり魅力的な人だよ、と言うと彼は「どんな人だよ」とますます笑った。今だけマダムの助手してるんだって、と告げると今度は驚いて、そんな奴がいるなんて聞いたことないなと首をひねっている。 「シリウス、さっきはごめん。っていうか、今日一日、ごめん」 「……いや、俺の方が悪かった。言わないでいいことまで言ったから」 頭を下げあって、握手をして。肩を叩いたら、もう胸のしこりは消えていた。 と、そこで丁度良く談話室からジェームズも出てきた。彼は、寮のすぐ外で肩を叩いて笑っている僕たち二人を見つけて、ほっとしたような呆れたような顔をした。 「君たち、僕に心配をかけたお詫びに今度の授業のノートを代わりにとりたまえよ」 こちらに来て、わざとらしい尊大な口ぶりで言うジェームズに、シリウスがじとりとした視線を送った。 「一体誰が『心配』したって? 今日の昼休み、例によってリリーにしつこく付きまとっていたくせに」 「あれは僕にとって習慣なんだ。朝食や昼食を食べるのと同じことなのだよ」 「分かったから、その口調やめてくれないか?」 ジェームズとシリウスのやり取りが面白くて、僕はくすくす笑いが止まらなかった。 「あの……マダム?」 「何でしょう」 数日後の、あるうららかな昼下がり。にわかに熱が出た僕は、薬をもらいに医務室に行った。もしかしたらがいるかもしれない、という期待は少なからずあったけれど、行ってみると残念ながら出迎えてくれたのはいつもの通り優秀なマダム・ポンフリーで、こちらもいつもの通り整頓された医務室には彼女がいた形跡すら見られなかった。 「……さんは、今日はいらっしゃらないんですね?」 「あの子なら、もう来ませんよ」 「えっ」 マダムの声が冷たいものになったので、僕はびっくりして椅子から立ち上がった。 「ああ、熱を測っているのだから動かないで。……あの子ときたら、ここにいる一週間の間にいくつ機材を壊したと思いますか? 17個ですよ! 私のマグカップまで! もう来なくていいと言ってやりました」 魔法省の意向なんて知るものですか、と鼻息を荒くしたマダムは、普段より大きめの足音を立てて薬の棚に向かって行った。 「魔法省?」 「彼女は本当は魔法省の役人なんですよ。後で知ったことですが。少し医療魔法をかじったことがある程度で、よくもまあ神聖なホグワーツに研修なんて来れたものです」 それは内部調査の一環だったのではないだろうか、という考えがふと浮かんだが、それをマダムに話したところで怒り狂うのが目に見えているので、何も言わなかった。もしかしたら本当にただの研修だったのかもしれないのだから。 彼女がいなくなったと聞いて、何だかとてもがっかりしている自分に気がついた。もしかすると心のどこかで、彼女と関わるこれからの日々を楽しみにしていた気持ちがあったのかもしれない。いや、きっとあっただろう。 僕に何か大切なものを教えてくれそうな、一生の中で誰か一人しか教えてくれないことを教えてくれそうな、そんな予感がしていたから。 とにかく今日は、チョコレートを買いに行って。そして、夜になったら、彼らにこの話をしよう。 あるもの、全てを癒すもの
|