My existence, in April



 その人と出会ったのは、春のある日だった。

 出会ったとはいっても、クィディッチの応援席で隣同士になっただけで、実を言えば私はそのもっと前から彼のことを知っていた。一方的にではあるけれど、かなり詳しく知っていた方だと思う。名前から血液型、果ては細かな癖まで頭の中に入っていた。もちろん噂としてだ。彼はとても人気者だったから、どこで何を食べた、誰と親しげに話をしていた、そういうささやかな噂話は毎日のように耳に入ってきた。
 応援席で隣になったなんて言うと、何も考えずに席に座ってふと横を向いたら彼がいた、みたいな印象を与えてしまうかもしれないけれど、なんてことはないきちんと彼が座っていることを確認してから隣に行ったのだ。レイブンクローの色の制服はグリフィンドールの中では目立つということで、グリフィンドールの友達に服を貸してもらうという念の入れようは、我ながら天晴れというしかない。
 別に、自分の寮のチームの試合でなくても観戦に来る生徒はいるし、観に来てはいけないという規則だってないから、気にする必要はないのに。矛盾しているような気がするけれど、あまり彼の前で目立ちたくなかったのだろうと思う。
 試合が終わりさあ帰ろうかというときに、自分の落とした旗で滑って転んだことは、忘れたい傷として、しかしはっきりと心に残っている。それを彼に――ルーピン先輩に、きっちり見られてしまっていたから。


「相変わらず、ここのジュース美味しいわ」
「……そうね」
 向かいでグレープフルーツのジュースを飲む友人の声で、一瞬だけどこかに飛んで行きそうになった意識が現実に戻ってきた。彼女は、この店に来るたびに同じものを飲んでいる。私も一度頼んでみたことがあるけれど、酸っぱすぎて一日中舌がぴりぴりしていた覚えがある。
 私は気のない相槌を打ってから、再び耳をすませた。
 さっきまで神経を張り詰めて聞いていたのに、ちょっと気が緩むと昔のことを思い出して、なかなか帰ってこられなくなる。これも、今のこの時期が原因なのだろうか。
「いい加減、盗み聞きみたいな真似はやめたら?」
 向かいに座る人を放ったらかしにしている私を見かねて、友人は呆れたような口調で呟いた。小声なのは一応、盗み聞きの対象に聞こえないように配慮してくれているらしい。
 私は彼女の言葉で自分の背後に集中させていた意識を前に戻して、カップに入ったミルクティーをすすった。ここの飲み物は、カップに魔法が掛かっているので、時間が経っても一番おいしい温度を保っている。その分だけお値段も少し上がるが。
「だって気になるもの」
「相手のプライベートにまで、踏み込んじゃだめでしょ」
「ここはちゃんとしたお店だし、はっきりプライベートとは言えないんじゃないかな」
「馬鹿ね。ワケありの男と女の会話なんて、みんなプライベートよ」
 そんなものだろうか、と思いながら、また紅茶に口をつける。
 かなり頑張って耳をすましていても、文脈を掴めるほど声が聞こえてこないので、盗み聞きは諦めることにした。
 こうなると、姿だけでも見られる向かいの席の方が良かったかもと思ったが、今更席を変えて欲しいなんて言ったら呆れを通り越して彼女に嫌われてしまいそうだから、やめておくことにした。
「家へのおみやげはどこで買う?」
「うーん……いつも通り紅茶にしようかな。ここの、美味しいし」
「そう。チョコレート買いたいんだけれど、付き合ってくれる?」
「いいよ、行こう行こう!」
 私があからさまに喜んだので、彼女はちょっと怪訝な顔をしてから、ははん、と頷く。
「プレゼントね。いいけど、前みたいに買いすぎないようにしなさいよ」
「……何故分かった」
「いいこと思いついたー、って顔に書いてあったもの」
 分かりやすすぎるわよ、と笑う彼女の声を聞きながら、私は二年前のことを思い出していた。


 二年前。
 私は四年生で、春先の風が吹く廊下で肩をすくめながら、早く夏にならないかなぁと思っていた頃。
 試合の応援で隣の席に座ってから、三年近く経っていた。
「ル、ルーピン先輩」
 これは誰の声だと疑ってしまうくらい高い声が、喉の奥から出てきた。おまけにちょっと掠れている。
 清水の舞台から飛び降りるほどの、いや薬学の試験紙をまっさらなままで提出するほどの勢いで呼びかけたわけだが、私は出鼻をくじかれた気分になった。
 ああ、どうか聞こえていませんように。幸いなことに風はびゅうびゅう吹いているし、聞こえていない可能性だってまだある。
 自ら声をかけておきながら、私はそんな後ろ向きなことを考えていた。
「――はい」
 鞄を抱えてそのまま通り過ぎようとしていたその人は、期待に反してちゃんと私の声をキャッチしていたようで。二、三歩離れたところまで歩いてから、くるりとこちらを振り返った。
「何でしょう?」
「……あ、その。えーと」
 こちらを向いた彼と目が合って、顔が一瞬で熱くなる。授業で当てらて答えられなかったときより、よっぽど速く。
「お誕生日おめでとうございます」
 私は、昨日の晩練習のために何度も布団の中で呟いた言葉と一緒に、両手で握りしめていた紙袋をぐいと彼に差し出した。とにかく、目的を果たしたら一刻も早くこの場から立ち去らなければ。彼が茹でた蛸みたいな私の顔を頭にインプットする前に。
 本当は計画を取りやめて逃げることもちらりと考えたけれど、あれだけ勇気を出して声を掛けたのに「真っ赤な顔で走って行った人」とだけ覚えられるのは、悲しすぎる。
「どうもありがとう」
 贈り物はもらい慣れているのか、彼は特に驚くでもなく、紙袋を丁寧な仕草で受け取って笑った。へな、とその場に座り込んでしまいそうなのを堪えて、私も笑った。
(……そりゃ、そうだよ)
 彼は校内でも知らない人はいない有名人なのだ。今日受け取ったであろうプレゼントの数は、私なんかには見当もつかないほどに違いない。実際にプレゼントをもらっている現場を見たわけではないけれど。
 受け取ってもらうだけで、自分の気持ちを伝えるだけで、満足する予定だったのに。彼が人気者だってことは、とうに知っていた、のに。
 どうしてこんなに物足りないんだろう。
「君は、レイブンクローの子?」
「へ?」
 もやもやとした気持ちで突っ立っていると、渡した紙袋を見つめていた彼が、いつの間にかじっと私に視線を向けていた。話をしたのが初めてなのだから当たり前といえば当たり前だが、彼のこういう表情を見るのは初めてで、ドキリと心臓が大きく鳴った。
「あっ、はい、そうです」
 憧れの人を目の前にして、感慨にふけるならまだしも自己嫌悪のあまり質問を聞き逃しかけるなんて、と反省していて、私はふと気がついた。
 今身につけているのは、明らかにレイブンクローのネクタイなのだ。彼がそんな分かりきったことをわざわざ尋ねる理由が分からない。疑問に思っていると、彼は口元に笑みを浮かべて言った。
「前に会ったときは、グリフィンドールだったでしょう?」
 はい? と聞き返しそうになって、慌てて口を閉じた。思い当たることがあったからだ。
「えっと――」
 ばれてたのか、というのが明らかに顔に出ていたのだろう、彼はしてやったりという表情をしてから、ふっと力を抜いて笑った。大丈夫だよ、となだめるみたいな笑顔で。
「なんてね。あれ以来、食事のときレイブンクローの席に座っているのを見かけたから、分かってたんだ」
 『あれ』とはつまり、私が記憶から消してしまいたい例の事件のことだろう。滑って転んでできた傷はもう痛まないけれど、恥ずかしさだけは時が経っても目減りしない。思い出しただけで顔を覆いたくなる。
 その上、私が気づかないところで彼に見られていたなんて。いつだか知らないけれど、気を抜くな、とその時の自分に言ってやりたい。いつもの調子だときっと、パンの欠片をテーブルにこぼすくらいはしていたはずだ。
「見てたんですか?」
「見てたよ」
「その……どんな感じでしたか?」
「どんな、って?」
「わ、私が」
 なんてことを聞いているんだ、と言ってから思っても、もう遅い。
 気がつけば、もう少しでいいから彼のことを知りたいと思っている自分がいた。それもファンの女の子の一人から聞くのではなくて、一対一の関係で、知りたい。
「そうだなあ。笑ってた、かな」


「――だって、誕生日プレゼントを贈ったりできるのも、もう最後なのよ」
 最後っていうか、実際にプレゼントするのは二回目だけど。腕に抱えた大きめの紙袋を持ち直して、もごもごとマフラーの中で呟く私を、友人はちらりと横目で見た。
「ははあ。それで何だか湿っぽい顔をしてたんだ」
「え、そんな顔してた?」
「してた。心ここにあらず、って感じ」
 時々長いこと昔の思い出に浸っていたのを、彼女には気づかれていたようだ。確かに、一緒にいる相手がぼんやりしていたら気になるのは当然だ。せっかくレポートと試験の山を乗り越えて自由を満喫しに来たのに、申し訳なかったなあと思う。彼女はそれで怒るような人ではないと知っているけれど、私は謝った。
 すると、彼女は首を振った。
「気にしなくていいわよ。私だって、寂しいもの」
「え?」
の好きな人なんでしょ? じゃあ、私も好きだよ。だからいなくなっちゃうのは寂しい」
 これって、ただの共感とは違う気がするの。と、彼女は言う。
「何がどう違うのかはよく分からないんだけど、なんとなく信頼に近いような、そんな感じ」
「……そっか」
 私は顔を伏せたまま、彼女の顔を見ることができなかった。踏み固められた土の上を歩く自分の足ばかりが目に入る。
(……)
 もし彼女にとても好きな人ができたとして、私はその人を同じくらい好きになれるだろうか?
 分からない、というのが私の正直な気持ちだった。でも、好きになりたいと思う。その人と私の波長が、たとえば面白いほどに交わらなかったとしても。

 ホグズミードからの帰り道、いつもなら寒くて早足になってしまうところなのに、今日は二人並んでゆっくりと、無言で歩いた。それはぎこちない沈黙ではなくて、むしろ、なくてはならない静けさだった。
 少しだけ離れたところにある、こことは微妙に違う世界の中で、仲良く語らっているような、そんな沈黙。
 むき出しの首元も、寒さはあまり感じなかった。



 季節みたいなものだと誰かが前に言っていた。
 みんながそれぞれ勝手に心の中で決めるもの。恋って、そんなものらしい。
「雨が降るときって、誰がいるところから最初に降り出したのかなんて、分からないでしょう?」
「……まあ、そうだろうね」
 よく分からないけれど、という風に軽く首を傾げながら、彼は同意した。私の話に脈絡がなかったから仕方がない。私たちは、ついさっきまで苺狩りの話をしていたのだ。あそこは料金の割に大きくて美味しいとか、苺のデザートが食べられるとか、彼にしてはかなり熱心に語ってくれた。多分、今まさにお腹が空いているのだろう。さっき時間を確かめたら、もうすぐ夕食の時間だった。
 雨なんて到底降りだしそうにない、藍色の澄んだ空を見上げて、私は言葉を続けた。
「それと同じで、どこから春が始まったかなんて、誰にも分からないんだろうなって」
 そもそも、区切りなんて最初からないのかも。
 私の呟きに、彼はちょっとだけ驚いた風にこちらを見た。
「そういう考え方は、初めて聞いたな」
「そうですか?」
「うん。意外だな、君ってそういうことあんまり考えなさそうだけど」
「失礼な。私だってこれでも色々考えているんですよ」
「あー、いや、ごめんごめん。そういう意味じゃなくて」
「ルーピン先輩、『そういう』が多いですよ?」
 一体それは何を指してるんですか、と私が笑うと、彼は思いのほか真面目な顔になった。
「違うな、言い方が悪かった。……君の場合、考えていてもそれを口に出さない気がするんだよね」
「……」
 見事なほどに図星だった。
 何故私はこんなことを彼に話したのか、その答えは考えればすぐに分かることだった。私は焦っているんだ。彼と持てる関わりの一切が、もうすぐ、完璧に途絶えてしまうことに。
 だから普段はわざわざ言葉にしないような、自分の抱えている思いを口に出して、彼と少しでも何かを共有していたいと思うのだろう。みっともないかもしれないけれど、『そういう』馬鹿正直な自分は、決して嫌いではない。

「区切りなんてない、か」
 彼はそう言って、私がしたように、隣で首を逸らして空を見上げた。少しずつ闇が濃くなっていく。
「……いつか、僕もそう信じられるようになるといいんだけど」
「え?」
 聞き返すと、彼は一度私の顔を見て、また外へと視線をやった。
「ううん。独り言」
「独り言、ですか」
「というより、希望かな。君に早く追いつきたい、っていう」
「へ?」
 多分、私が虚をつかれた間抜けな表情をしていたからだと思うけれど、彼は私の顔を見てふき出すように笑った。私はというと、つられて笑い出したいのは山々なのに彼が何を言わんとしているのかまったく分からなくて、笑うに笑えなかった。でも、まあ、独り言と言っていたから分からないのも無理はないのかもしれない。
「自分が未熟だって知ってると、いいこともあるよ」
「?」
「未来がある、って思える」
(……うーん)
 なんだか、煙に巻かれているような気がしないでもない。
 でもその割には、彼は真面目な顔をしている。
 何と答えていいか分からなくて、私が黙ると、もう風の音しか聞こえなかった。
(そういえば、初めて話をしたのもここだったなあ)
 それはつまり、二年前の同じ日のことだ。
「ルーピン先輩。私今日、先輩を見かけました」
「本当? どこで」
「ホグズミードのカフェです。女の人と一緒」
「……そう。気づかなかった」
 何故だろう。さっきから、彼の顔を見ることができない。
「また、振っちゃったんですか?」
 違う。こんな話がしたいわけじゃない。こんなことを聞くために、たくさんチョコレートを買って、ここに呼び出して、彼にプレゼントしたんじゃない。
(でも……きっと、違わない)
 私がずっと、心底彼に聞きたかったことは、誰の想いを受け取らなかったのかということではないかもしれないけれど。少なくとも、苺狩りのお勧めスポットではないのだ。つま先でタイルの継ぎ目をつつきながら、私は止められない言葉をそのまま吐き出した。
「相手の人、前も先輩に告白したって噂で――」
「君には関係ないよ」
 言葉の途中で、冷静な声に止められた。
 思わず顔を上げると、そこには静かな微笑みがあった。それは本当の意味では笑っていなかった。怒っているわけでもなかった。ただ、踏み込むことを拒絶しているだけだった。
 私は彼の目を見て、必死で微笑みを返す。
「分かってます。聞き慣れましたよ、その言葉」
「そう?」
「今まで何回も言われました。これでも結構傷ついてるんですよ」
 そうだろうね。とても小さな声で、彼は言う。
 平気なはずがないのだと、私もずっと分かっていたから。
 だから、これ以上傷つけたくないと、そう思った。年下のくせに生意気だと自分でも思うけれど、彼をこれ以上傷つけたら、もう修復不可能なまでに自分も傷ついてしまうような予感があった。

「あなたが一番好きです、先輩」

 顔を見ずに言ってしまってから、はっとする。
(……まずい)
 告げるだけで満足するはずだったのに、言葉に引きずられるようにして、私の中から思いがあふれ出てくる。
 ずっとずっと、好きだった。初めて誰かから話を聞いたとき、初めて自分の目で見たとき、初めて話をしたとき。どこから始まったのか分からないけれど、いつからか恋をしていた。
 何もかもが好きで、たまらなかった。彼のことを好きだと思うたびに、私の中に大きくて重たい、あたたかい気持ちがあることを思い知らされた。その気持ちにそっとふれるたびに、涙が出そうなくらい切なかった。
 彼を好きだという理由だけで、私は、私の目に見える世界を愛することができた。
(だめだ……!)
 私の耳がおかしくなってるのでなければ、彼の声はまだ聞こえてこない。私はぎゅっと目をつぶった。
 彼が私の気持ちに答えられないのは、分かっていたから。だから、期待なんてしてはいけない。期待していないと思っていた。でも。
 ためこんできた気持ちが一気に出てきて、おさまり所を見つけられずに心を彷徨っている。

 あなたが、一番好きです。



「……さん。雨が降りそうだよ」

 長い沈黙のあと、小さな声で彼が言う。
 私は、そうですね、と俯いて目をつむったまま答えた。

 雨粒だろうか、と思った一滴の雫は、じわりと胸の奥に痛みを広げていく。
 私は、久しぶりにファミリーネームで呼ばれたことに傷付いているのか、彼にとうとう受け入れてもらえなかったことが悲しかったのか、はたまた自分が泣いていることがショックだったのか、分からなかった。分からないけれど、とにかく一人になりたかった。できれば寮の自分の部屋で。
 けれどそれは、自分を惨めだと思って、他人の目にさらしたくなかったからではなくて、一人で静かに考えたかったからだった。この苦しみはどこからきたのかとか、これからどう向き合えばいいのかとか、そういうことをゆっくり考えたかった。今そうしなければ、きっと心のどこかが不完全なままになると思ったから。
 恋の始まりや終わりが、もしも本当に人が自由に決めるものなら、私の恋の終わりは今なのだと、分かったから。

 私以外にそれを決める人なんて、いるはずがなかった。







素敵な企画に参加させて頂き、ありがとうございました! まな子