ディスタント
distant


 教室は薄暗かった。この講義に割り当てられた教室ではそれが常なので、僕は驚きもせず扉をくぐって中に入った。窓がないことはないけれど、遮蔽物に隠された位置にある教室だから、仕方がない。窓の外を覗くと、小ぶりな木と背の低い植え込み、それに隣の塔の石壁しか見えない。
 講義が始まる間際の教室は、二割くらいの席が埋まっていた。僕は最後列に見知った人の姿を見つけて、隣の席に腰を下ろした。


「あ……こんにちは、リーマス。遅かったね」
 は突っ伏していた頭を上げてぼそぼそと呟く。うとうとしていたからまだしゃきっとしていないのか、声に力がない。
「寝てた?」
「うん……昨日夜更かししたのが悪かったのかなぁ。眠くて眠くて。この教室ちょっと暗いでしょ。相乗効果ってこういうことをいうんだね」
「夜更かし?」
 早寝早起きのが夜更かしとは珍しい、と思って僕は聞き返した。
「本を読んでたら、つい」
「なんだ、本か」
「え? 一体何だと思ったの?」
 けらけら笑う彼女は、「シリウスじゃあるまいし」と面白がって付け加えた。
には夜中に密会するような相手がいないから、そういうことは心配してないよ」
「失礼な! 私だってその気になればねぇ、彼氏の一人や二人……」
「できたことないでしょ」
「うるさい」

 ちょっと頬を膨らませるようにして怒った振りをしてから、はふと真顔になって首を傾げた。
「あれ。リーマス具合悪い?」
「え?」
「何か、顔赤い。いや、青いのかなこれは……薄暗くてよく分からないなぁ」
「大丈夫だと思うけど? 特に変なところはないし」
 そうかなぁ、と言いながら、は納得しない様子で鞄から教科書やノートを取り出し始めた。見ると、背の高い教授が教室に入ってくるところだった。

(……はぁ。危なかった)
 必死で取り繕ったけれど、心中は穏やかではない。いつもより少しだけ早く脈を打つ胸を、服の上から押さえてみても、やっぱり逆効果だった。
 寝起きだからか、の声はちょっとだけかすれているし、髪はやや乱れ、目は眠たげに細められている。一瞬想像したことを頭の中から追い払おうとしても、そう簡単に出て行ってはくれない。
 意識しての方を見ないようにしないと、さらに顔が赤くなってしまいそうな気がしたので、僕はひたすら黒板に板書を続ける教授の手を見ていた。


 講義が終わると、数少ない受講者はさっさと教室を出ていく。
 は案の上、また机に沈んでいた。静かにゆっくりと上下する肩。それを揺すって起こそうと思ったが、肩に手が触れようかというところで、授業中はどこかへ行っていた先ほどの想像がまた蘇ってきて僕をぎりぎりで押し止めた。

「……起きてよ、
 が寝るのなんて別に珍しいことではない。いつもはどうやって起こしていたんだっけ?と、記憶の中を探ってみるけれど、ちょっとした混乱状態の中では、まともに答えを見つけられなかった。
 他の人が席を立った音で目が覚めていたんだっけ? それとも、僕が起こしていたんだっけか。どうも後者のような気がする。
 どちらにせよを一人でここに置いて立ち去るのは気が引けたので、どうにかして彼女を起こさなければならないのだろう。

 肩を揺するか。頬をつつくか。鼻をつまむか。髪を軽く引っ張ってみるか。頭を撫でてみるか。
 頬にキス、してみるか。
 いやいや、それはない。それはだめだ。日本人のには、刺激が強すぎるだろう。以前、出会った当初のことを僕は思い出した。頬にキスする挨拶があることを知らなかったらしく、あのとき彼女は真っ赤な顔をして走って逃げて行ってしまった。
 でも、もし今キスしてが起きたとしても、今度は僕の方が赤い顔をしていそうだ。

「……

 しょうがない、これで起きなかったら肩を揺すって起こそう、と思いながら、できるだけ大きく聞こえるように耳元に口を近づけて名前を呼んだ。

「わっ」

 すると、が小さい悲鳴を上げて跳ね起きた(だけではなく、急に立ち上がった)ので、僕も「うわっ」と叫んで思わず身を引いた。
 驚いてを見上げると、彼女の顔は、薄暗闇でもはっきり分かるくらい、赤く染まっていた。
 硬直して僕を凝視しているは、驚きと、困惑と、照れが混じり合ったような複雑な顔をしている。僕は耳元で名前を呼んだことを後悔しつつ、とりあえず沈黙を埋めるために口を開いた。

「……おはよう」

 僕の言葉にはっとして、彼女は体をびくりと揺らし、半歩後ろに下がった。
「は、う」
「……はう?」
 ますます顔を赤くしたは、口をぱくぱくと動かしながら首を横に振る。

「ご、ごめんっ」
 大丈夫だろうか、とそろそろ心配しかけたとき、はそう叫んで教室を走って出て行った。

 の走る足音が響いている間ずっと放心していた僕は、しばらくして我に返った。
「……びっくりしたのはこっちだよ、

 まるでデジャブだ。
 同じように熱いだろう自分の頬。それを軽くつねってみる。そして、彼女の顔が赤かった原因を想像してみる。都合のいい方、いい方に解釈しそうになる。
 は照れ屋だし、慣れていないから、と自分に言い聞かせつつも、「それが僕だから?」という問いに頷きたい気持ちも大きくて、口元が緩む。
 彼女は今、何を思っているんだろう。僕のことを考えてくれているのだろうか?




 廊下の端まで走ってから、立ち止まって、荒い息を整える。

「……びっくりした……」

 本当は、リーマスの「起きて」という声で目が覚めていたのだ。でも、彼が隣でじっとこちらを見つめている視線を感じたから、起きるに起きられなくて、狸寝入りをしてしまった。他の人の気配は感じられなかったから、授業が終わったのだろうということは分かった。薄暗い教室で、二人きり。そんなの、恥ずかしくてまともに彼の顔を見られるわけがない。
 リーマスがなかなか私を起こそうとしないのも少し不思議だった。彼は優しいから、寝ている私を放置して行くことはしたくないのかなとか、席を立つ音で起こしたらいけないと思って立ち上がれないのかな、とか考えながら、必死に目を閉じていた。眠気はとっくに覚めていて、心臓の音がやけに大きかった。

「ばれたかな……」
 石の壁に手をついて、うーむ、と唸る。
 とっくにばれていてもおかしくない私の気持ちであるが、さっきので彼が気付いた可能性は高い。……非常に高い気がする。リーマスの驚いた顔が脳裏に浮かんだ。

「狸寝入りなんて、するんじゃなかったなぁ……」

「狸寝入りだったの?」

 いきなり背後から聞こえてきた声に、恐る恐る振り返ると、やはりリーマスが立っていた。
 独り言を聞かれた恥ずかしさと驚きで、うごお、というような奇妙な声が喉の奥から出てくる。

「い、いや、狸寝入りじゃ……」
「ひどいな。どうやって起こそうか必死に考えてたのに」
 冗談めかして軽く笑うリーマスは、別段気分を害した様子もなくて、私はほっと安心した。確かに、ここで「狸寝入りだって? ふざけるな!」と筆記用具を投げつけてくるような人であれば、好きになるかどうかも疑問なのであるが。
「ほら。教科書と鞄。忘れてたよ」
「あ」
「そそっかしいね、は」
「仰るとおりです……」

 鞄を受け取ってうなだれる私の頭を、リーマスはぽんぽんとたたいた。
 私がはっとして顔を上げると、彼は自分の手を見て「あれ」と不思議そうな顔をする。
「さっきは触れちゃいけないかなと思って悩んでたんだけど、今、手が勝手に動いた。……これって、一体なんだろうね?」
「なに、それ」
「ある程度は、本能に身を任せてみるのもいいかもね」
 ぽかんとしている私に「まぁ、まぁ」と言って、リーマスは気を取り直したようにまた微笑んだ。
「今度からはちゃんと触って起こすから、安心して」
「えっ」
「さて、夕ご飯食べに行こうか」

 そんな、心臓に悪い――とひきつった笑みを浮かべる私をよそに、リーマスは機嫌よく大広間へ歩いて行った。
 その後を追いかけながら私は、何だか一歩前進したような、幸福感と少しの期待を感じていた。

 うん、いい調子。自分にゴーサインを送る。
 彼に追い付くまで、あと少しだ。