春風を抱いて


 春風が、びゅう、と吹く。うしろに、仄かな桃色の香りを残しながら。

 春色といえば桜色、と決めつけてしまうのはもはや、日本人の性である。
 もちろん、そうでない人だっているだろうけれど、多くの日本人にとって春を象徴するものは桜だということは、確信を持って言える。
 それは、日本から遠く離れていても同じことで。
 薄着では風邪をひいてしまいそうだけれど、冷たいだけではない風を肌で感じるのはとても気持ちがいいし、目を閉じると桜のつぼみが開き始めている様子が思い浮かぶ。

 ホグワーツ城に桜の木はない。あるとすれば、トネリコや柳の木ぐらいだ。
 おいしい桜餅を食べられるカフェもなければ、日本のお花見のようなお祭り騒ぎの行事ももちろん存在しない。
 春風だって、まるっきり同じというわけではなく、ほんの少し鋭かったり、温かかったり、速かったりする。
 でも、そんなホグワーツの春を、いつの間にか好きになっていた。母の作った料理や、故郷の小学校へ続く通いなれた田舎道をいつの間にか好きになるのと、きっと同じように。

「さて、と」

 いつもの場所にのんびりと腰を下ろして、昨日リリーがプレゼントしてくれた手作りクッキーの袋をごそごそと取り出し、さあ食べようと袋を開けたその時、どこからともなく現れた黒い犬が、さっと私の手からクッキーを袋ごと口にくわえて奪い取った。
 それこそ春風のように、あっという間に去ろうとするその艶々とした尻尾を、むんずとつかんで引き寄せる。犬は、強い力で引っ張られて少し痛かったのか、「ぐえ」とも「きゃん」ともつかないうめき声を漏らした。

「困った子には、お仕置きが必要」
「わん」
「わんじゃない。人の物を盗るなって教わらなかったの? 君は」

 反省した様子もまるでなく、ただからかうように瞳をぐるぐる動かしている黒犬を見ていると怒る気も失せて、半ば脱力しながらも犬を開放してやる。手が離れた途端、大急ぎで走ってどこかへ行ってしまった。
 私だって、初めから本気で怒るつもりなどさらさらない。怒ったってどうせ、リリーのクッキーは返ってこないということは、よく分かっているから、無駄なエネルギーを使わないのが得策だ。クッキーを受け取るところをジェームズたちに見られていたのが運の尽き、と諦めるしかないのである。

 午後のおやつを失った私は、気の抜けた体をそのままごろんと仰のけた。
 芝生がちくちくと足や腕に当たってこそばゆい。まだ深くはない緑の合間から、やわらかい光が切れぎれに差し込んでくる。
 ゆっくり目を閉じて、風の吹く音や遠くの笑い声を聴いていると、だんだん瞼が重くなってきた。
 あんまり気持ちがよくて、このままここで寝てしまおうか、なんて考えが浮かび始めたとき。

「――やっぱりここにいた」

 よく知った声がいきなり上から聞こえてきて、私は数瞬の間、目を閉じたまま固まった。
 そして声が幻聴でないことを悟ると、ガバ!と音がしそうなくらい勢いよく、寝ころんでいた身体を起こした。

「うわっ」
「いっ、たぁ……」

 ああなんてこった、と私は唸った。
 しゃがみこんで私の顔を覗き込んでいたリーマスの額と、慌てて起き上がった私の額が、それはもうすごく痛そうな音をたててぶつかったのである。それだけならまだましなものだが、二重に焦った私は反動で後ろに倒れこみ、またもや芝生に後頭部を打ちつけた。草に覆われているとはいえ、このホグワーツでも、草の下は地面であってスポンジケーキでは決してない。当然、打ったら痛い。ものすごく痛い。

「ごめん……」

 痛みの引いてきたらしいリーマスが、心配そうなのか笑い出しそうなのか分からない微妙な表情で、隣の芝生の上に座った。

「……こっちこそ」

 潤み出した目に力を入れ、おでこと後頭部を押さえながら私はゆっくり起き上がった。
 横を見ると、彼は額をさすっていた。目が合うと、苦笑して静かに瞬きをする。

「大丈夫? 後ろも打ったんじゃない」
「うん。なんとか」

 打ったときほどの痛みは実際にもうなかったけれど、まだちょっとだけ痛いなんて真実を言ったらもっと心配されそうだったから、控えめに言ったのだが。リーマスに微笑まれただけで、わずかな痛みも本当にどこかに消えていった。我ながら、現金というか、正直というか。
 できることならずっと見ていたい。でも、それはつまり自分も同じだけ見つめられるということを意味している。気恥しさに耐えかねて、視線を前に戻した。
 熱くなった頬に当たる風が気持ちいい。
 それでも黙ったままの隣の人が気になって、ふと横目で窺うと、また目が合った。また。思わず、口元が緩む。

「……あ」
「え?」
「えーっと、リーマス?」

 そういえば、彼がなぜ私の元にやってきたのか、その理由を聞くのをど忘れしていた。
 リーマスは、なに?という感じで小首を傾げる。

「えっと……何か私に用事があったんじゃ……?」
「ああ! そうだった」

 目を見開いた彼は、頭をぶつけたせいで忘れたのかな、と苦笑しながら自分のローブのポケットを探った。一体何が出てくるのか、とその手元を見つめていた私の視界に入ったものは、折りたたまれた紙切れだった。
 リーマスは「これこれ」と言って、それを私に差し出す。

「何……?」
「さて、何でしょう。開けてみて」

 言われるままに薄い桃色の紙を受け取って広げると、そこには『ハニーデュークス 春の特別ギフト券』という文字がでかでかと踊っていた。それを見たとき、頭をぶつけた時以上の衝撃が体中を伝って、危うく紙を落としそうになった。
 私は、ギフト券、という文字に釘づけになりそうな視線をリーマスに移して言った。

「リ、リーマス……! これって」
にプレゼント。昨日、誕生日だったよね?」
「え? う、うん」
「それでストロベリー・ミルク・チョコレート・ビスケットが二箱くらいは買えるはずだからさ。まぁ、何を買うかは次第なんだけどね。現物を買ってプレゼントっていうのも考えはしたんだけど、こっちの方がの好きなものを選べるかなと思って。あ、昨日はなかなか二人で会えなかったから今日に持ち越したんだけど――」

 ここまできてちょっと照れくさくなってきたのか、視線を合わさず早口になっている彼を、私はまじまじと見つめた。
 わずかに赤くなった頬に、触れたくてたまらなくなった。もちろん、そんな大胆なこと、出来るはずもないのだけれど。

「ありがとう」
「ううん」

 頬に触れる代わりに、私にプレゼントを差し出したその手にそっと自分の手を重ねて、もう一度ゆっくりと「ありがとう」と呟いた。とても近くにいるから、小さな声だってちゃんと聞こえる。
 彼が、どういたしまして、と微笑んだとき、二人の髪が優しくはためいた。
 湖にはやっぱり、春風が吹いていた。

 そうしてまた少し、私はホグワーツの春を好きになる。



「うーん、青春だねえ」
「あいつらは人目を気にしないのか?」
「ちょっと、うるさいわよあんたたち! 黙ってなさい」
 城の柱の陰から湖の畔をのぞき見しながら、三人の男女がひそひそ話をしていた。
 勝ち気そうな女の子の手には、しわくちゃになった小さな袋が握られている。
「あーあ、そのクッキー食べたかったなぁ。リリーの手作りなんて早々お目にかかれるものじゃないのに……」
 顔の位置で拳を握りしめる眼鏡の男の子の頭を小突きながら、女の子は呆れた声で言う。
「馬鹿言わないで。これはへの誕生日プレゼントなのよ。あなたも、分かってるの? シリウス」
「俺はジェームズに頼まれただけだから。……そうか、の誕生日だったのか」
「え?」
「昨日、リーマスの奴、ずっとそわそわしてたなと思ってさ。お金も貯めてたみたいだし」
「僕もに何かあげたいな。ねぇ、リリー、何がいいと思う?」
「自分で考えれば? あんたが騒がないで大人しくしてるだけでみんな喜ぶと思うけど」
「リリーってば、冷たい!」
「あーもー、お前らうるさい!」