雪の日に

 ホグワーツ城には、ここ数日間、ずっと雪が降り続けていた。
 降るというより、落ちるという方がぴったりくるような、どっしりとして重量感のある雪。ためしに手に取ってみたら、室内がとても暖かいせいなのか、冷たさに腕だけではなく身体まで震えた。時には強風にのって激しくなり、時にはふっと止んで、また気がつけば降り始めていたりする。
 なんだか、時々顔を出す、この奇妙な気持ちと似ている。
 そう思いながら、けれど心の片隅で、雪の降り方に自分の心情を重ねるなんて、詩的すぎてつまらないとも感じながら、わたしはぼんやりと窓の外を眺めている。窓は、普通ならば曇って外が見えないだろうほどの温度差にも関わらず、はっきりとホグワーツの湖や庭を見せてくれている。


 わたしは、もしかしたら、今のこのひと時が、とても幸せなのかもしれない。それは、ぼんやりと色々なことを考えているうちに、ふと心の中に浮かんだことだった。
 一年後、五年後、十年後、もっと時間が過ぎて、今を振り返ってみたら、「ああ、あの時自分はなんて幸せだったんだろう、もっと幸せをかみしめておけばよかった、当たり前のことだなんて思わずに、感謝すればよかった」と思うのかもしれない。あの時に戻りたいと、切なく願うのかもしれない。
 でも、時間は巻き戻せないから。だから今この一瞬に、ちゃんとありがたみを感じて生きなければいけないと、思う。
 本当は、あの人に出会ったときから、いつだってそう感じ続けていたのかもしれないけれど。
?」
「……リーマス」
 向かいで手紙を書いていたリーマスが、いつの間にかソファの隣に座って、わたしの顔の前でひらひら手を振った。
「ずっと呼んでたのに、ぼんやりして。どうしたの?」
 わたしがさっきまで考えていたことを言ったら、彼はどういう反応をするだろうか。
 それはとても気になったけれど、言ってしまおうと思っても、どうしても口が動いてくれなかった。
 寒くてとうとう口まで凍ってしまったに違いない。と一瞬思ったのは置いておいて、きっと、わたしの心の中のストッパーが知らぬ間に働いて、止めたのだろうと思う。防御線から出てはいけない、防御線の中に人を連れ込んではいけないと。
 そんなの、今更だ。
「へ?」
「……え?」
「何が、今更なんだい?」
 リーマスが首を傾げたのを見て、わたしもつられて首を横に倒した。
「……わたし、喋れてる?」
 今、喋ってるじゃないか。堪えきれなくなったみたいに笑いだしたリーマスを見ている内に、自分でもおかしく思えてきて、一緒に笑った。
 それは、お腹を抱えて必死に息をしながらの笑いではなく、たとえば、白い大きな鳥の羽を、太陽の光に透かしてくるくる指先で回しているような、そういう笑い。遠くの方で、聖堂の鐘が鳴っているのが聞こえるような、そういう、ささやかで静かで、温かい笑いだった。

「あ、シリウスだ。おーいシリウス」
 リーマスが、談話室を通りがかったシリウスを呼びとめた。
「おーリーマス。……何笑ってんだ?」
がね、おかしなことばかり言うんだよ」
「わたしはリーマスが笑ったから笑ってるんだけど」
のせいだよ。ぼうっとしてたと思ったら、急に真面目な顔になるし」
「それって面白い? リーマスこそ変だよ。ね、シリウス」
 わたしとリーマスが湧き出てくる笑いを止められないまま喋っているのを、シリウスはちょっと複雑そうな顔をして黙って聞いている。わたしが笑ったままシリウスに尋ねると、「お前らは二人とも変だ」と呆れたように言い残して、さっさと談話室を出て行ってしまった。
「二人とも変だって」
 わたしはぽかんとして、既に隣で笑ったまま紅茶を飲んでいるリーマスを見た。
「シリウスに言われるとショックだなぁ」
「確かにね。でもシリウスって、ああ見えて根は真面目だし」
「一途だしね」
「まだ誰とも付き合ったことないんだよね? 人気あるのに」
「そうみたいだね。僕らにも、そういうことはあんまり話さないけど」
 城の廊下は、少しの間いただけでもすごく体が冷えるから、こうして噂話をしていると、今頃シリウスはくしゃみを連発してるんじゃなかろうかと言うと、リーマスがまたやんわり微笑んだ。
 どきり、と胸が鳴った。
 わたしはこの微笑みが、大切な人にしか向けられないのを、知っている。
 笑いにも色々あって、わたしの場合は「愉快だから笑う」か「人付き合いのために笑う」か、大別するとそのどちらかだけれど、リーマスの場合、その種類はわたしのよりももっとたくさんある、と長年の経験で知っている。
 先生や生徒にお世辞を言われた時の品の良い笑顔。
 悪戯仕掛け人たちの悪戯を表面上は止めようとしながらも、気がつけば面白そうに話に加わっている時の、わくわくしている笑顔。
 しつこくジェームズからアプローチを受けて、翌朝もぷんぷんしているリリーへの、なだめるような笑顔。
 何度教えても公式を理解しないピーターへの、イライラを抑え込んだ笑顔(あれはちょっと恐ろしかった)。
 ジェームズやシリウスへの、信頼の笑顔。――等々。
 わたしが、こんなにも彼について考えを深めているのは、ただこのホグワーツで一緒に生活してきたから、という単純な理由だけではないと思う。それには、ちゃんと自分でも気がついていた。
 けれど、いざ「好き」という気持ちのことになると、考えれば考えるほど思考がもみくちゃになって、必死に掴んでおこうと思っても、肝心なことが指の間からすり抜けていってしまう。あんまりそれが長く続くから、最近は、それでいいじゃない、とさっぱり割り切れるようになってきた。
 貴重な「今」を、悩んでばかりで過ごすのは、損だ。

 ふと気がつくと、リーマスが笑みを収めてこちらを見ているのに気がついて、わたしは慌てて窓の外に再び目をやりながら、口を開いた。
「そ、そういえば、リーマス。手紙、書き終わったの?」
「え? あー。うん、まぁ」
 彼らしくない、歯切れの悪い返事に、わたしは視線を彼に向けた。
「ごめん、もしかして、わたしが邪魔した?」
 リーマスは、笑って首を横に振る。
「そんなことないよ。……今日は、もういいんだ」
 わたしはますます首を傾げる。
 この雪だと今日は外に出られないし、珍しく課題は出ていないし、手紙を書くには好都合だと思うんだけれど。
 わたしの不可解そうな顔を見て、リーマスはにっこりと笑った。
 彼から発せられた言葉に、わたしは言葉を失った。

 折角といるのに、もったいないなと思って。

 そのときわたしは、わたしの気持に大事なことが何か、なんとなく分かったような気がした。
 「今」に必要なのは、まぎれもなく、彼なのだ。

 熱くなった顔を見られたくなくて、返事もせずに、わたしは窓の外を見た。
 雪は相変わらず、静かに振り続けている。
 今も。多分、これからずっと先も。