「はあ……」
 温かい紅茶を啜って、大きく息を吐いてみる。談話室の暖炉の火は、私たちが階段を下りてきたときには既についていたけれど、やはり真冬。寒いものは寒い。特に今日は、一段と寒い気がする。窓の外には、見ているだけで凍えそうな早朝の景色が広がっている。何もこんな日を選ばなくてもと、私は紅茶を淹れてくれた恩も忘れて、恨みをこめた眼でリーマスを見つめた。
 彼は自分の分の紅茶をじっくり味わっていて、私の視線に気がつかない。わざと、気がつかない振りをしているだけなのかもしれないけれど、癪だったから何も言わないでいることに決めた。
 すぐにも梟小屋へ向かおうとしていたのに、私が寒い寒いとうるさいから、持て余した彼が淹れてくれた紅茶。まだ誰も起きだしていない時間帯、二人きりで、大きくて柔らかいソファに沈んでちびちびとそれを啜る。相変わらずすごく甘い。でも、まだ起きたばかりでしゃっきりしない私の頭には、それくらいの甘さが丁度いいのかもしれなかった。

「一杯だけ飲んだら、行くからね」
 沈黙を決意した矢先、リーマスがのんびりと呟いた。私はちょっと拍子抜けして、温かいティーカップに入った紅茶を危うくこぼしそうになった。こういうとき、憎まれ口がするする出てくるのはどうしてだろう。
「何度も言わなくても分かってるわよ。大体ね、手紙を出しに行くくらい、一人でできないの」
「僕は一人でできないことないけど、がついてくるって言ったんでしょ?」
「そんなこと言ってない」
「言ったよ。『私も出すから一緒に行こう』って」
「一緒に行くのと、ついていくのとは違うでしょ」
「……じゃあ、無理に同じ日に合わせなくても」
 リーマスが呆れるのも無理はない。私だってちゃんと分かっている、自分から勝手に日を合わせておいて非難できる身ではないということは。でも、この思わず愚痴を言いたくなるほどの寒さに免じて、彼には許してもらうしかない。
 それに。
「昨日だったら、シリウスだって梟小屋に行ってたのに。どうしてついて行かなかったの?」
「べつに」
 べつに、気が向かなかっただけ。うまい言い訳を考えつけなくてそう呟くと、リーマスは「今日は気が向いたの? こんなに寒いのに」と苦笑した。……この人は本当に、今日に限って私の気が向いた理由を分かっていないのだろうか?
 それを見極めたくて、今更見極められるはずがないけれど、彼を見つめてみた。でも笑いが引いた後の彼は、じっと凝視する私を見て「何?」と首を傾げるばかりである。これじゃあ全然お話にならない。
 何の話って、それは。

 こぼれそうになるため息を、カップに残っていた最後の一口を飲み干すことで押しとどめた。彼もちょうど飲み終わったようで、腕を伸ばしてソーサーにカップを戻していた。
(君の鈍感と、お相子ってことね)
 しわくちゃのローブや、細長い指や、鳶色の(ちょっと寝癖のついた)あなたの髪を見るにつけ、私がこんなにも胸をときめかせているというのに。リーマスは不思議そうな顔をして「熱でもあるの? 大丈夫?」などととぼけた様子で尋ねてくるばかりで、同じようにドキドキしてくれることはないのだ。一度なんて、彼の顔をじっと見ていたら「目が充血してるよ」とさえ言われた。……そんなに目が血走っていたなら、言いたくなる気持ちも分からなくもないけれど。
 そんなこんなで、私は、最近だんだんと自分の自信が失われていくのを感じているのだ。
「……自信というか、何というか」
 呟くと、リーマスが「え?」と聞き返してきた。確かに、心の中の声までは彼に聞こえまい。だから思う存分心の中で、「リーマスのばか」と叫んだ。それはもう富士山のてっぺんで、仁王立ち、しかも両手をメガホンのように口の脇に添えて叫ぶくらいの勢いで。
 早く、早く気付いて。
 言葉で伝えることは、できそうにないから。


 梟小屋に着くと、彼は仕事をしたがっている手ごろな梟を探し始めた。の手紙も一緒に送っていいよね、と彼の背中に尋ねられたので、私は上の空でイエスを返した。多分、長旅に耐え得る丈夫な梟を探してくれているのだろう。
(……どうしよう、どうしよう、どうしよう)
 リーマスがいつ手紙を出すか予測がつかなかったから、いつ届いても不自然じゃないような手紙を両親宛てに書いていたのだが、それを寮の部屋に置き忘れてしまったのだ。気がついたのは梟小屋へ続く階段を上っているときで、そのときにはもう「手紙を忘れちゃった」なんて笑って引き返せない状況だった。だってそうしたら、手紙を送ることは口実だと言っているようなものになる。

 後々考えてみれば、「手紙を忘れちゃった」と言って引き返しても、日頃からしっかりしている部類ではない私に関しては別に不自然ではなかったし、鈍い彼が「もしかして」と思うこともあまり想像がつかないことで、だからあそこまで焦らなくてもよかったのだけれど、もちろん動揺している私の脳の回転は正常ではない。
 ぼろ雑巾みたいな計画を咄嗟に練り上げて、次の瞬間には行動に移していた。

「リ、リーマス。お腹痛い」
 しゃがみ込んでお腹を押さえながら、お腹なんてちっとも痛くないのに、自然と顔が歪んだ。「リーマスのばか」というさっきの言葉を取り消して、今度は自分に叫びたい。私は、本当にばかだ。愚かだ。でも、あなたが好きだから嘘をつきました、なんて言い訳をすることの方が、もっと愚かに思えた。
 最初から、すべて間違っていた。
「大丈夫?」
 彼は優しいから、すぐに駆け寄ってきてくれる。反比例して、私はますます縮こまった。
「医務室へ行ってくるわ」
「僕もついて行くよ」
「いい、一人で行けるから」
「……そう? 気をつけてね」

 気をつけてね、って。たかだか医務室へ行くだけのことなのに、と思って顔を上げると、いつの間にか顔と顔の距離がすごく接近していて、思わず驚いて、そのままこてんと後ろにお尻をついてしまった。
(……!)
 なんてこと。ここは梟小屋で、床はあまり清潔とは言えないのだ。慌てて立ち上がろうとすると、不意に手が伸びてきて私の二の腕を掴み、ぐいと立たせてくれた。
「汚れちゃった?」
「ううん、大丈夫。……霜で、ちょっと濡れたけど、すぐ乾くと思う」
「そう。ちょっと待っててよ、すぐ終わるから」
 彼はそう言うと、身を翻して梟の一群に向き直り、一番近いところにいた一羽に自分の手紙を結び付けた。その一羽というのはジェームズの梟で、嘴が印象深い色をしていてよく目立った。瞳がらんらんと輝いているところなんて、ジェームズにそっくりだ。
「頼むね」
 リーマスが梟を送り出している。私はあまりに情けなくて、泣きも笑いもできないまま、それをぼんやり眺めていた。朝陽が本格的に城を照らし始める中、ジェームズの梟は大きく羽ばたいて目的地へ向かって飛んでいく。恐れや不安など何も感じさせない、気持ちのよいその飛び方を、ただただ羨ましく見ていた。時間の流れを感じたくなくて、動けない、そんな感じだった。

「ジェームズに後で言っておかなくちゃ」彼が不意に振り返って微笑んだ。
 その笑顔が、胸が熱くなるくらいきれいで、愛おしくて、何だか人生が真白に戻ったみたいに感じられて、私は鼻がつんと痛くなった。そのせいだと思う。あんなに言い出せなかったことを言えたのは。
「……嘘をついて、ごめんなさい」
 彼は一瞬目を見開いて、またすぐに笑った。
「それなら僕も謝らなくちゃ」
「ど、どうして?」
「二人とも嘘つき、ってことだよ」
 お相子だから、許してくれる? と彼は尋ねた。でも、私にはよく意味が飲み込めなかった。辛うじて、彼が私の嘘を見破っていて、尚且つそれに腹を立てているわけではないということだけは分かったけれど、それだけだ。彼が私についた嘘、って一体何だろう?
「あれ、気付いてない?」
 私が頷くと、リーマスは徐に私の手を引いて、梟小屋から出た。外は入った時よりも明るくて、ほんの少し暖かくなっていた。
 私は、石の階段を軽快に下りていく後姿を、困惑しながら見つめた。手をつないでいるから当然自分も下りていかなければならないのに、頭の機能がぼうっとすることに集中しているようで、何度も転びそうになった。その度に少しずつ強くなっていく、彼の手の意図が分からない。あんな茶番をしかけられ、訳も分らぬまま謝られたというのに、彼は至って平静で、少しも怒った様子が見当たらない。怒るとまでいかずとも、多少は動揺しなければおかしいのだ。
 彼が平生通りである理由が、一つしかないことに、その時はまだ気付く余裕がなかった。

 梟小屋がもう見えない城の中まで来て、やっと彼は口を開いた。
「僕がどうして驚いていないのかって不思議に思ってる?」
「……」
 リーマスって、読心術を身につけていたっけ。という私の考えも分ってしまったみたいで、彼は「顔を見れば分かるよ」と笑った。
「今までずっと、隠してきたことだけど」
「何?」
がずっと僕を見てる理由、実は知ってるんだ」
 息が詰まった。何が来るかと、十分に心の準備をしていたのに。
 今、私が驚いてリーマスを凝視していることを言っているのではないだろうけれど――なんて、動揺しすぎたためか、とんちんかんなことばかりが頭に浮かぶ。彼が微笑みながら私に一歩近づいた。さっきまで手をつないでいたから距離は近かったけれど、更に近くなって、そのことに混乱してますます思考がこんがらがっていく。
「そ、それってどういう……」
 きょろきょろ目を泳がせて逃げ道を探す前に、彼の腕につかまった。
 
って鈍感だよね」
 その台詞、君にだけは言われたくない。そう思っていたのに、どうやら彼の方が正しいらしい。
 彼の肩越しに、グリフィンドールの生徒がゆっくり歩いてくるのが見える。もっとペースを落として歩いてきてくれると嬉しいんだけれど、と思って、ふと気付いた。もう朝食の時間なのだ。
「……そうみたい、だね」
 嬉しいんだか悔しいんだか分からない。笑いたいのか怒りたいのか、それすらも分からない。
 でも、頬を一筋流れた涙は、間違いなく「幸せ」だったのだと思う。

 嘘なんてつかなくてもいいんだよ、って、誰かがそっと微笑んでくれたような気がした。