とある晴れた夏の日。
「ほんとは、バカだったんだ。アンタ」
 十歳近く年下の男の子に、そんな言葉を投げつけられる、昼下がり。


透明な蛇


 もう少し頭が良いタイプだと思ってたけど、と付け足して、テーブルの向こうに座る相手は嫌味な笑い方をした。そのまま、口元にストロベリー味のシェイクをもってきて最後の一啜りをすると、私の質問に答えることはなく、窓の外を見遣った。
 言われたことが理解できずに戸惑っている私を置き去りにして、彼はグラスを置いてため息をつき、視線をこちらへ戻した。
「見たら分かるだろ」
「何がよ? っていうか、バカって何よ?」
 ワンテンポ遅れてむかむかと腹をたてていると、男の子――レギュラス・ブラックはフンと笑った。そんな嘲るように笑わなくたっていいじゃない。ついそう思ってしまったが、今まで、彼が心の底から楽しそうに笑った表情なんて一度も見たことがなかった。何年も近くにいるのに、一度も。
「そういうところがバカだと言ってるんだ」
「……そんなに人のことバカだバカだ言うなら、"利口なおぼっちゃん”、に分かりやすく説明してもらおうかな」
 利口なおぼっちゃん、と口にした瞬間、レギュラスはふっと微笑み(に近いもの)を見せて私に素早く杖を向けた。彼が懐に手を入れ、杖を取り出してその先を向けるまで、私は一切の反応ができなかった。
 さすが、エリートだわ。
 思ったことをそのまま口に出すと、彼の片眉がピクリと上がる。
「家のことを引き合いに出すのはやめろと、何度も言っているだろ」
「わかったから杖を下ろしてよ。目立つでしょ」
「……アンタといる時点で、かなり目立ってると思うけど。教授」
「そんなことないわよ。私があなたを可愛がってずっと側においていることなんて、周知の事実でしょう。気にしない、気にしない」
「アンタ、本当にスリザリン卒業生?」
「どういう意味よ。正真正銘の、スリザリン寮主席卒業生なんだから」
 なんなら今から古株の先生方に確認しに行くか、と立ち上がりかけた私の肩を、レギュラスが「分かった、分かりました」と押さえた。
 確かに、薬学の先生にしては授業態度が軽いとか威厳がないとか、生徒たちから散々に言われていることは知っているけれど。それでも、スリザリンの生徒たちが可愛くて仕方がないことは事実なのだ。特に、今目の前にいるこの子は。

「で。何の話だっけ」
 私の言葉に、レギュラスは心底呆れたような顔をした。
「アンタが呼んだんでしょ。せっかくの休みなのに、こんなところに」
「いいとこでしょ? 秘密の話をするには絶好のポイントなの。昔からよく利用しててね、ここのオーナーのストロベリーシェイクはどこのよりも美味しいんだから」
「まあ、悪くないとは思いますけど。ほら、また脱線する」
「ああー、ごめんごめん」
 ごく最近になってから、彼とこういう砕けた会話をする迄は、それでもきちんと教師として扱ってくれていたけれど。
 時には危険な素材も扱うことがある薬学の授業で、こうまで緊張感がないのは問題だ、とある日校長に諭されてから、私の授業では”居眠り一回につき薬学レポート5枚”を徹底しているのだ。そのおかげで、寝不足の生徒だって私の前で机に突っ伏していびきをかくようなことはない。
 だから彼だって、何故か自分を気に入って事あるごとにこき使ってくる私に、文句も言わず従ってくれていた。
 今日までは。
「あなたの兄上についてなのよ。どうして、毎週毎週私の本を借りに来るのか知りたくて」
「それはだから……アンタのこと気に入ってるからだろ、って」
 ほらこうして、ちょっと親しく喋ろうものなら私を馬鹿にして、およそ目上の者に対するものではない口のきき方を……。
「ん――えっ?」
「東洋人が珍しくてちょっかい出したくなったんでしょう。あの人の考えそうなことだ」
「それはないと思うけどな」
「どうして」
 意見を聞きたがったのはアンタでしょ、と言いたげに、レギュラスは眉を顰める。
「だって、私美人でもないし。年上だし」
「ああいう格好つけなタイプは、ちょっと変わった年上の女性に興味をひかれるものだろ」
「君は? 君は、そういう時ある?」
「僕は……」
 私の問いに、レギュラスは少し面食らって俯いた。
 彼がグラスの中を見下ろしても、底に少しだけ残った氷とシェイクの残りしか見えないだろうに。いつも理路整然とした彼にしては珍しく、黙り込んでしまった。思考のピースがはまり切らないうちに彼の方が口を閉ざしたので、私は焦れて自分のグラスについた水滴を指ですくって、テーブルにその指をすべらせる。
「君のお兄さん、色々噂だけは聞いたけど、各寮の選りすぐりの美人ばかりと付き合っているそうじゃない? だからきっと、面食いなタイプだと思うのよ。かと言って、薬学に然程興味があるわけでもなさそうだし……」
 だって、貸した本を返しに来るとき、本当にきちんと読んでいるのかどうかを確かめたくて色々質問をしているけれど、いつも話を逸らされるし。そりゃ、学生には読みきることすら難しい本なら仕方がない。でも、中には比較的簡単な本もあるし、図書資料室に置いてるものもあるし。
 私がブツブツと独り言のように喋っている間、レギュラスはまだ下を向いたままだった。
 しかしその視線は、自分のグラスから、私が描く”水滴アート”の方へ移行しているようだった。
「何、それ」
「ん?」
「……ミミズ?」
「失礼ね、蛇よ蛇。スリザリンといえば蛇でしょ?」
「それのどこが蛇なんだよ」
 そう言って、まだ机の上に置いていた自身の杖で私の描いた蛇を指す。
「どこかおかしい?」
「そんな可愛い蛇がいてたまるか」
「あら、可愛いのもいるんだから。ベトナムに生息する蛇でね、これが……」
「蛇の話はいいですから」
「スリザリンのくせに」
「関係ないでしょう。……あー、もう、調子狂う」
 心底嫌そうな顔をしている割に、彼が席を立つ気配はない。
 こういうところが、彼に構いたくなってしまう理由の一つなのかな、なんて暢気な考えが頭に浮かんだ。

 なんだか常に、誰かと戦っているように見えるのだ。
 彼が子供らしくない顔で、「先生、この資料の出典が」なんて話しかけて来れば、どうにかしてその表情を崩して、笑わせたくなってしまう。とくに成功はしていないけれど。
 あなたが誰と戦ってもいいけれど、私と戦うのはやめて欲しい。
 らしくもなく、そんなことを考えてしまうのだ。
 しかもそれが何故だか楽しくなってきている。
 今日はじめて「アンタ」「バカ」呼ばわりされ(言っておくけど、教師になってから誰にもそんな風に言われたことはない)、軽口を叩いて。それが予想以上に嬉しいということに、気がついてしまった。

「私って、マゾなのかしら」
「は?」
「あ、ううん。それで、何の話だっけ?」
「……それ、今日で何回目だと思ってるんですか?」
「まあいいじゃない。そうそう、蛇の話だ」
「違う」
「あれ?」
 レギュラスは嘆息してから、気を取り直すように言った。
「うちの兄が迷惑を掛けているなら、出入り禁止にするとか、対策はいくらでもあるでしょう」
「迷惑っていうかね。君なら、私には分からない彼の意図も察しがつくかと思ったんだけど……外れちゃったみたいだね」
「ここのところ兄と一緒に暮らしてはいないので。先生の力にはなれませんね。どうもすみません」
 先生、のところだけを小馬鹿にした言い方で強調するのはやめてくれないかな。
「わかった。じゃあ、まあ、次に会ったとき本人に聞いてみる」
「……何があっても、僕は関係ないですから」
 彼はそれだけ言うと、あっさり椅子を引いて立ち上がった。
 奢って頂いてありがとうございます、とお礼を言うことも忘れない。


「――あ。さっきの、質問ですけど」
「ん? 質問?」
 さてどの質問のことか、と思いを巡らせているうちに、彼はまた一歩外に踏み出しながら少し笑った。
「興味なら、僕もありますよ。ちょっと変わった年上の女性に」

 絵が下手くそな人なんですけど、と付け加えて、彼の姿は見えなくなった。