視界の隅の方であの艶々した黒髪が揺れているような気がして、いや実際彼はそこにいるのだ、それが私はとても気になっている。でも一度本に熱中している振りをしてしまったら、もうそれを貫き通すしか道は残されていない。視線を上げて存在を確認するなんてもってのほか、読んでいる本ならぬ方向へ意識を集中することすら許されない。だから私は、必死に本の文字の意味を考えていた。別に誰かに禁止されているわけでもない、単なる私のつまらない見栄なのだけれど。
 夏日とは今日みたいな日のことを言う。私は、本を持っているのとは反対の手で膝の上からタオルを取り、額から頬にかけて流れる汗を拭った。暑すぎて頭がぼうっとしてきた。そっと頬をつねってみると、触った指から顔の温度の高さが分かる。こんなに暑いのは珍しいことだ。

 ふと首筋に風を感じて、私は後ろを振り返った。そうしたら、さっきまで斜め向かいの椅子に座って気だるそうにこちらに視線を送りつづけていたはずの人が、いつの間にか私の後ろの窓を開けて桟に凭れ掛かっている。私が暑そうにしているのを見て窓を開けてくれたのだろうか。私には、そんなまさか、と笑うことができない。一瞬だけ目が合ったのを、取り消すこともできない。今最善の策といえば、机に向き直ってさっきの彼の瞳の色を忘れるように努力することだけ。後ろで、愉快そうに笑い出す気配がした。

「いつボロを出すつもり、さん」

 徐に近づいてきたかと思えば、私の耳元でそう囁いて彼は図書室から去っていった。たくさんの生徒が、その人の後姿を、じっと見つめていた。シリウス・ブラックの後姿を。

 本と一緒に目を閉じて、眼鏡を外した。汗が急速に冷えていく。もはや何の本を読んでいたのかすら記憶に残っていない。せっかくの休日の午後に、無意味な時間を過ごしてしまったなぁ、と思いながらしばらくじっとしていた。いつボロを出すのか、なんて問われても困る。元から、彼の前だと、自分自身を何も繕えていないような嫌な不安に包まれるのだ。余裕があるはずもない。

 深く考えるのはやめて、とにかく寮に戻ろうと図書室を出ると、廊下の反対側から知っている人が歩いて来るのが見えた。一瞬にして強張ってしまった身体を、なんとかして壁際に寄せた。廊下の真ん中にいては、どんな因縁をつけられるか分かったものではないからだ。彼の気性や性格についてよく知っているわけではなくとも、彼の周りにいる人々の血統を重んじ他寮を分別なく蔑む様を、否応なしに思い出してしまう。でも、何となく、彼が纏う雰囲気には、他にはないものが感じられるような気がしていた。由緒あるブラック家の跡取り息子としては、スリザリンらしさが足りないのかもしれない。

 壁際にはりついている私などには目もくれずに、レギュラスは廊下をさっさと通り過ぎて、図書室に入った。もう彼の姿は見えない。ほっと息をついて、私は寮へ戻る道を辿った。絵の中の老婦人が、「恐るべきブラック家」と調子をつけて歌っているのが幽かに聞こえた。


 翌日の朝食の席で、一限目が自習になったことを知らされた。昨日のことがあったため図書室へ行こうかどうかを迷っていると、この寮の数少ない友人であるリーズが、ベーコンエッグに濃いソースをかけながら気だるげに言った。数日前彼氏と別れて、彼女は少しうつ気味なのだ。

「ねえ、はシリウス・ブラックの恋人なの?」
「……まさか」
「私も思ったけど。でも、実際にそういう噂が流れているのよ」
「誰が言っているのか知らないけれど、私とブラックなんて、おかしな組み合わせだと思わなかったのかしら」

 そこまで面倒見切れない、という風にリーズはふうと息をついた。彼女の真似をして、深く息を吐いてみる。大広間の湿度は丁度よく保たれている。近頃ダンブルドアの喉の調子が良くないらしい。私は、ベーコンエッグをのろのろ口に運ぶリーズを見た。数週間前はちらちら気にしていたスカートの皺も、もうまったく気にならないらしい。それでもさすがに校内で一、二を争う美少女だから、髪型のセットだけは抜かりがない。彼女に友達が少ないのは美人なのに頭が切れるからだけれど、私にほとんど友達がいないのはそういう理由からではなかった。
 リーズが、唇の端を親指で拭いながら呟いた。

「明日、クィディッチがあるわね」
「……そういうの応援しに行くタイプだった?」
「ううん、違うけど。行ってみるのも悪くないと思って。ほら、傷心だから」
「自分から振ったくせに。そもそも競技場にどうやって行くか知らないでしょう」
「その通りよ。、連れて行ってね」
「はあ……」

 何よ、そのため息。気が晴れたように笑う彼女を横目で見て、この子は旗を持って応援するのかしら、しなさそうだ、と思った。そして、リーズの笑顔をちらちら見つめる周りの人たちから自分の意識を遠ざけようと努力していた。栗色のミルフィーユみたいに柔らかそうな彼女の髪が、明るい陽を浴びている様がとてもきれいなのは、本当に確かだけれど。

「噂が嘘ってことは分かったけれど、必ず源があるはずよ。彼と何か接触した?」
「図書館で話しかけられた」
「あら、どうしてまた」
「……シリウスは、私が本当はスリザリンではないんじゃないかと疑っているのよ」
「組み分けは絶対でしょう? それに、六年も経っているのに、どうして今更」
「私が闇の魔術を嫌っていることを知ったからでしょう」

 やはり少し意識して小声でそう言ったとき、私の肩にそっと手が触れた。慌てて振り返ると、そこに立って私の肩に手を置いていたのは、何とレギュラス・ブラックだった。そのとき私は咄嗟に、自分の軽はずみな発言を心から後悔した。進んで「例のあの人」に協力しそうな一家であるブラック家の次期当主が今の言葉を聞いたら、一体どんな行動をとるのだろうか。良くて拷問、悪くて家族全員皆殺し? 僅か一瞬で駆け巡った想像に顔を青くして、私はただ彼の言葉を待った。

「ちょっと、来てくれる?」


「兄と君が付き合っているという噂を聞いたけど」

 無表情で彼が言うので、私は虚を突かれた思いだった。そんなくだらない噂について言及するために私を呼び出したとは、到底思えなかったからだ。カラカラに乾いた風が一通り髪を撫ぜて過ぎていく間、私はどう反応したものかしばらく思案していた。
 来てくれるかと問われて了承の意を示すと、彼がそれきり何も言わずにさっさと歩き出してしまったので、結局どこに行けばいいのか分からなかった。どこへ行くつもり、などと聞くことはできない。勇気がなかったし、そもそもあんな言葉を聞かれた(かもしれない)今となっては、私は自分のこれからについて半分諦めかけていた。
 城の裏手にある老木の前まで彼はよどみなく歩いて、くるりと振り返ると、びっくりしている私に先手を取った。

「まぁそんなことはどうでもいいんだ。単なるきっかけだから」
「きっかけ?」
「いきなり本題に入るのもどうかと思ってね」
「できればそうして欲しいわ。私は望んでスリザリンになったわけではないし、咎めを受けたってきっとびくともしないから」
「……咎め? 何のこと?」レギュラス・ブラックは、本当に理解できないと言うようにその形の良い眉をひそめた。
「ええと、」私は息を大きく吸う。「さっき私の話していたこと、聞いたんじゃなかったの?」

 胸が嫌にどきどきする。確かに、目の前で不審気な顔をしているこの人は、私に罰を与えようとしているのではない。それなら一体何のために、話をしたこともない私をこんな所へ呼び出したのだろう。彼の言う「本題」とは、何のことなのだろう。自分にまったく覚えがないことだから、どんな言葉が彼の口から飛び出すのか予測がつかなくて、私はひどく焦った。

「君の言っていることが何なのか分からない」
「……それならいいわ。で、あなたの用件は何?」
「兄に伝えて欲しいことがある」
「私とシリウスは、断じて付き合っていないわ」
「どっちでもいいんだ、そんなことは。どうせこんな噂が流れたら兄は君に接触するだろうし、もしかしたら何かしらあったから噂になっているのかもしれないし」
「そのどちらかだとして、私がどうしてあなたたち兄弟のフクロウにならなければならないの?」

 私は、同寮の子に言伝を頼まれたらちゃんとそれを伝えてあげるぐらいには社交的だと自負している。相手がシリウス・ブラックであっても、まず私にそんなことを頼む人はいないという事実はおいておいても、普段なら頼みを断るようなことはしない。だからどうして私がそんなことを言ったのかというと、思った以上に彼が冷静で頭の良い人だったから、そしてさっきまでの絶望がよくよく情けなかったからなのだ。だから、無理にでも想定外のことをつくって投げつけなければ気が済まなかった。
 勢いに任せて言い切ると、彼はきょとんとした。まさか断られるとは思ってもみなかった、というのがありありと表情に出ている。私は呆れると同時におかしくなった。この目の前に立っている人は、少なくともその兄よりは、構えた人ではないのだろう。

「新たな発見ね」
「は?」
「ううん。……明日の試合、頑張って。応援してる」

 私の言葉に、レギュラスは尚更びっくりした様子だった。私はそれきりその場から立ち去ったし、その日一日中彼と顔を合わせることもなかった。それなのに、「ありがとう」と言いながら心細げに笑った彼の顔を、次の日もそのまた次の日もずっと忘れられないでいるのは、何故だろうか。


「よりにもよってあのレギュラスか」踏みならされた坂道を下りながら、リーズが言う。「励ましようがないわ」
「別に励ましてもらいたくて言ったんじゃないもの」
「顔はいいけどね。彼って六年生でしょう? シーカーだし、頭もいいし、別に文句をつけるところもないんだけれど」
「ないけれど?」
「彼の取り巻きが気に食わない」

 分かるわ、と私はクィディッチ競技場の背の高いポールを見上げて呟いた。天気はとてもいい。ここのところ暑くてたまらなかったけれど、今日はそういうこともない。ただ、リーズは陽を手で遮断しながら「焼ける焼ける」と小声でぼやいていた。苦笑して辺りを見回すと、あちらこちらでスリザリンの象徴のような濃いグリーンの旗がゆらめいている。どうやら座る場所はここで合っているようだ。隣の席でハッフルパフの生徒がどっちのブラックを応援するか討論しているから、少し不安だったのだ。私はため息をついた。結局リーズは、紙でできた緑の旗を持ってにこにこしている。

「新たな発見だわ……」
「何?」
「いいえ、別に。あ、選手が出てきた」

 緑と赤の選手たちは、途端に沸き起こった歓声に応えるようにして手を振り、競技場の芝生の上を監督の元まで歩いていく。私は、他と比べると小柄で華奢な選手をその集まりの中に見つけた。彼がこちらに気がつくなんていうのは無理なことだと分かってはいても、がんばれ、と言いたくて大きな声で名前を呼んだ。
 その時、レギュラスがぴくりと反応してこちらを見、箒を上げて微笑んだ。ように私には見えた。何しろ一瞬だったし遠目なのではっきりとは分からない。でも、隣のハッフルパフの女の子二人が私を睨みつけるように見たので、多分目の錯覚ではなかったのだろう。リーズが「甘酸っぱいわねえ」とお婆さんのようなことを言うのに思わず笑って、私はもっと大きく手を振った。やけに暑くて、額から汗が流れた。今日だって立派な夏日だ。
If...