あんな女、と乱暴に吐き捨てる声が聞こえた。私は、つと立ち止まってすぐ左横の扉を見た。何てこともない、ホグワーツではよくある形の扉だ。私は胸を異常なほど波立たせて、頬に冷や汗を滑らし、どうか次の声が聞こえませんようにと心底祈りながら、同じ場所にじっと突っ立っていた。
 しかし願いに反して、声は聞こえてきた。鬱陶しい質問に答えるような口振り。
「はっきり言って、期待した俺が悪かった。あの時どこに価値を見出したのやら、さっぱりだ」
「でも、貴方からだったんでしょ」
「そんなこと、今は関係ない」
「……男って本当、都合いいわよね。呆れちゃう」
(だれ……?)
 私は声を出さずに唇だけ動かして、そう言った。彼と喋っている女の子は一体誰だろう。「ね? ジョセフ」聞き覚えのない声が、不意に彼の名前を呼んだ。カタン、というやけに可愛らしい音がして、沈黙の中どうやら二人はキスを始めてしまったらしくて、わざわざそれ以上聞いていることもなかったので、私はその場を足早に離れた。

 聞いている理由がないから、なんて単なる口実に過ぎないことぐらい、十分分かっている。
 私は表情を硬くしたまま寮の自分の部屋へ戻って、思い切りベッドに身を投げ出して、それから一生懸命泣いた。多分、小一時間は泣き続けたと思う。泣きながら私は、人間というのは本当に真剣に泣くときは無心なのだ、というようなことを感じていた。我ながら機械的な哀しみ方だ。

 思えば、付き合ってから一度も彼に名前を呼ばれたことがない。もう今となってはどうしようもないことなのに、それが無性に悔しくて、馬鹿にしていると思った。そして、泣き止んだらもっとむかむかしてきた。やめろやめろ、あいつ以外に怒りをぶつけてもしょうがない、と自分に言い聞かせるのだけれど、こういうときはむしろそれが逆効果になるものだ。怒るのは当然のことなのに、どうして私ばかり抑えなければならないの、と思ってしまう。誰かに遠慮する必要なんてないわ!
 何度枕を壁に投げつけても腹立たしい気持ちはどうにも収まらないので、とにかく寝てしまうことにした。たくさん寝たら起きたときには気分が落ち着いているだろうと思って、それに望みをかけて、目を閉じた。最後の涙が一粒、ぽろりと瞳からこぼれて抱きしめた枕に染み込んでいった。
 終わりは、なんて呆気ない。


氷 細 工



「へ?」
 午後の最初の授業中、色々なことをぼんやりと考えながら羽根ペンをくるくる回していたら、後ろからこそりと小さな声で名前を呼ばれた。授業で当てられる以外に名前を呼ばれることなんてあまりないので、何事かと慌てて振り返ると、後ろの席に座っていたレギュラス・ブラックが私に向かってしかめっ面をしていた。彼の隣にも私の隣にも、座っている人はいない。それなのに、私はさらにひそひそ声で彼に言葉を返した。何だか内緒話をするのが面白くなってきたのだ。
「なあに、レギュラス?」
「ジョセフに振られたって、本当?」
「え、」
「昨日聞いた。てっきりデマだと思ってたんだけどな」
 あいつと、今日は離れて座ってるから。そう言ってレギュラスはしかめっ面のまま「あいつ」の方をちらりと見た。私もつられて、ついついそちらに視線を向けてしまった。ドキドキはない。むしろその行為よりも、「あいつを見る自分」を軽蔑することで精一杯で、それ以外の感情も思いつけなかった。
 大体、この教科を取る生徒なんて学年全体で見てもほとんどいないし、そのほとんどが変人の集まりだから、それぞれが固まることなくバラバラに座っても何も不思議はないのである。ただ、私とあいつは先週のこの授業までずっと隣同士に座っていたから。
 私は「あいつ」ではなくレギュラスを見て、やんわりと言った。

「もし、それが本当だったら。レギュラスはどうするの?」
「……どうする、って」

 彼の困惑顔から目を逸らして、私はまた羽根ペンを回し始めた。くるくる、くるくる。窓際の、教室の出口に一番近い席。レギュラスの後ろに机はない。教授は黒板に向かって必死に何か書いている。窓の外からは、午後の太陽の強い光が射し込んでいる。生徒が、楽しげに話しながら歩いている姿が見える。
「いいな、この教科取るの止めたら、この時間はあんな風に過ごせるのよね」

「そんな目で見ないでよ。別に振られたわけじゃないわ。どうでも良くなっただけ」
「君が振ったの?」
「そう。偶然浮気現場に居合わせちゃってね」
 そっと、まるで真夜中にコソコソお化けの話をするときのように言うと、レギュラスは思い切り眉を寄せた。たまには彼の兄のように、豪快に笑ってみせてもいいと思うんだけれど。あぁ、それは禁句ね、と心の中で苦笑した。
「怒った?」
「……に、決まってる!」
「何でよー」
 おかしくてついケラケラ笑ってしまった。そうすると彼がとても気を悪くすることを知っているから。案の定もっともっと顔を厳しくさせた彼は、まだくるくる回っていた私の羽根ペンを取り上げた。まったく、彼がお爺ちゃんになったら、眉の間にばかり皺が出来るんじゃないだろうか。
「怒らないでよ、レギュラス」
「真剣にしろよ。僕は真剣だ」
「分かってるわよそんなこと。あなたが不真面目だったことなんて、一度もないんだから」
「……」
「まぁ、確かにね。大好きだったの」
「あいつなんて、僕の足元にも及ばない」

「……これだから、スリザリンは!」

 初恋は、永遠になくしてしまったけれど。今回ばかりは、何だか彼に救われたような気がした。笑うなよ! という彼の声を聞きながら私は、授業中であることを忘れて、大きな口を開けて笑い続けた。