Q.E.D.



3.

 彼女の得意科目は、占い学と天文学。
 苦手な科目は、それ以外の全て。

「訂正させてちょうだい」
「ん?」
 朝食の席でいつもの分厚いベーコンをナイフで切り分けながら、前の席から聞こえた声に顔を上げた。
 見ると、が仁王立ちで腰に手を当てている。
「別に苦手じゃないわよ。レポートが大儀なだけ。その証拠に、点数もそんなに悪くないし」
 口元は微笑んでいるが、目が笑っていない。漆黒に近い彼女の雄弁な瞳が、僅かに怒りを湛えていた。彼女のそんな顔は見たことがなかったので、僕が固まっていると、さっきまで話をしていた隣のリーマスが朗らかに挨拶をした。
、おはよう。どうしたの、座りなよ。ジェームズが失礼なことを言っていたのは僕から謝るから」
「おはよう、リーマス! いいの、ぜんっぜん、怒ってないわ!」
 は元気よくそう言って、嘘みたいに明るい笑顔で席についた。
「あー、お腹空いてたの。昨日遅くまでレポートを書いていたから」
「あの、……?」
 恐る恐る正面のに話しかけると、彼女はクロワッサンを皿に取り、笑みを深くした。
「ジェームズ、昨日は遅くまでありがとう。今日、午前中にリリーとミンスパイを作る予定なの。うまく焼けたらお礼に持っていくわね」
「あ、ありがとう」

 いつになく速いスピードで朝食を食べ終え、足早にが寮へ戻っていった後、リーマスが小声で言った。
に何したの?」
「……別に、何も」
 コーヒーを啜りながら何でもないように返事をしたものの、実際には胃の中で朝食がぐるぐると渦を巻いて竜巻を起こしているような、不穏な気配がした。きちんと午後までに消化してくれているだろうか、なんて、ついつい心配してしまうほど。

 次にに会ったのは夕方だった。その日、最後の授業は天文学で、普段なら誰よりも先に教室に着いている彼女が、珍しく遅れてやってきた。
「どうしたの?」
「ちょっと手間取っちゃって。あ、隣いいわよね?」
 何に手間取ったの、という問いかけにかぶるようにして、先生が教室に入ってきたので、僕はそれ以降口を噤まざるを得なかった。何しろこの教授は、「天の声を聞くのだ……」とうわ言のように呟いては胸ポケットのメモ帳を引っ張り出して何かしらを書き付けるのが癖という変人で、大きな物音やヒソヒソ話を何よりも嫌っている人なのである。
 ホグワーツという学校には「変人」がありふれているので、この教授の独り言にも然程抵抗感を感じなくなっている自分に時々気がついて、少し恐ろしくなったりする。こうやって人の世界観や価値観は変わっていくのだろう、なんて納得したりもする。

 日ごろからこのスピリチュアルに偏った講義を真剣に聞いているとは言いがたかったが、今日は特に気もそぞろだった。終業のベルが鳴って席を立とうという時も、教授が熱心に語っていたテーマが一体何のことだったかほとんど覚えていなかった。ともかく板書さえ写しておけば、後から脳内で”天文的かつ神秘的なエッセンス”を補完しながら、だいたいの内容を復元できるだろう。
「おつかれさま!」
「ねえ、晩御飯の前にさあ……」
 周りの生徒たちは次々と立ち上がって、次の目的地へ向かっていく。
 隣で教科書をしまっているを立ったまんまぼんやり見下ろしていると、不意に彼女がこちらを見上げた。
「……今日は、先に帰っちゃわないのね」
「え?」
「最近ずっとそうだったじゃない?」
 首をこてんと傾けたが、一体何のことを言っているのか分からなかった。
 教室が薄暗いせいか――顔色が少し悪いように見える。
「あら、ここのところ避けられていると思っていたけど、私の気のせいだった?」
「いや、それは」
「いいの。別に、そのままでも! ただ、これだけは受け取って欲しいの。昨日のお礼だから」
 彼女は机の上に、きちんとビニールで包装された一切れのミンスパイを置いた。
 そして困ったように目を細めて、「それじゃあ、また明日」と言い残して、教室から出て行ってしまった。

「……」
 僕は呆然として、薄暗い、誰もいない教室に佇んでいた。
 ただ分かっていることは、机の上にあるのはの手作りのミンスパイだということ。
 そして、一体何が起こっているのか分からず、自分が真っ暗な混乱の中にいるということだけだった。