Q.E.D.



1.

 ふらりふらり、と揺れている頭をぼんやりと眺めながら「今日は何回で沈没するだろうか」などと悠長に考えていると、唐突なゴチンという固い音とともに、目の前の彼女は机に突っ伏した。
「……痛い……」
 さすがにあの音だ、痛くて目が覚めたが、赤くなった額を指先でさすりながら頭を上げた。さっきまで片足を眠りの世界に突っ込んだ状態だったからか、いつも澄んでよく通る声が、今は掠れている。
「当たり前だろう」
 木のテーブルといえど、身構えもせずぶつけたら痛いに決まっている。紅茶のカップが傾くほどのものではないが、文字を書くには少しだけ凹凸のある机に目線を下ろして、僕はぼそりと呟いた。
 その言葉が聞こえているのかいないのか、は大きなため息をついて、今度は自分の意思でズルズルとテーブルに沈みこむ。
「……これ、今日中にやらなきゃダメかな」
「もうすぐ日付変わるけど、答え聞きたい?」
「意地悪なジェームズは嫌いだー……」
 うつ伏せているから表情は分からないけれど、きっと恨みがましい顔をしているのだろう。早く顔を上げてくれたらいいのに、と思いながら杖を振って、温かい紅茶をカップに注いだ。
「ほら、これでも飲んで続きやりなよ。あんまり遅くまで起きてると、明日に響く」
 ゆるやかな長い髪の散る羊皮紙の横にカップを置きなおすと、やっと身体を起こした彼女が、予想通り不満げな顔で僕を見やって唇を尖らせた。
「夜な夜な悪巧みばかりしている人の言うことではないわよ、それ」
「毎晩レポートから逃げてカードをしていた君に、何を言われてもね。最近タロットにはまってるらしいけど、一体何を占っているのやら」
 僕の言葉を聞いて、彼女は「うっ」と苦虫を噛み潰した顔をして少し身を引き、渋面のまま紅茶を口に含んだ。
「何でもいいでしょ、何でも。女の子はね、天からのお告げがないと行動できないこともあるの」
「……ふーん」
 何とはなしに目に入る、乾燥したやや白っぽい唇と、動きに合わせてかすかに揺れる黒髪とのコントラスト。
「……」
 数日前から、僕の視線は彼女の唇に真っ先に向かって行くようになってしまった。いや、そのことに気がついたのが数日前というだけで、本当はずっと以前からのことだったのかもしれない。何にしても、いつからかなんて今の僕には分かりっこないので、考えるのは諦めた。
 咳払いをしたい気持を抑えて、不審に思われないように僕は壁のタペストリを眺める振りをした。
 カップを置いたが、そういえば、と徐に口を開いた。
「ジェームズ、最近おかしくない?」
「……君はよっぽどレポートがやりたくないんだね」
「別に話を逸らして逃げようってわけじゃないけどね」

 彼女の瞳の、濃い黒色が、僕に自覚をさせる。
 これは親愛でも恋愛でも、友情でも表しきれないと、僕は思う。

「何だか余所余所しくなった気がするの。私の気のせいなら、いいんだけど」
 何でもないことだと思っているように見せかけて、本当はかなり気にしているのだろうと、彼女との短くはない付き合いの中で冴えてきた勘が言っている。しかし、僕は本当のことを言う気には到底なれなかった。
 近頃君を見ていると気分が高揚してどうしようもないんだ――なんて、が納得する説明になるとは思えない。僕たちは何年もかけて”友情”を育んできたはずなのだから。
「僕はそんなつもりないけど」
 にこりと笑うと、彼女は「そう」と俯きながらテーブルの上に言葉を置くように言い、再び羽根ペンを取った。
 睡魔に負けそうになるまで進めてきた分もあるし、これから一時間ほど集中してやれば彼女のレポートは今晩中には終わるだろう。
「ねえ、ここはこの出典でいいの?」
 本と羊皮紙を交互に睨みつけていたは、ふと僕に尋ねた。
「何々……うん、これでいいよ。補足が必要かもしれないけど」
「そうね。書き出しから変えることにするわ」
 紅茶をごくごくと飲み干して、手首にはめていたゴムで髪をひとまとめにすると、は気を取り直すように僕に笑顔を向けた。
「付き合ってくれてありがとう。もう一人でやれると思う」
「……そう?」
「遅いから、ジェームズは寝た方がいいわ。お礼はまた明日」
「期待してるよ」
 席を立って部屋を立ち去ろうとする僕に、はおやすみと手を振ってまた机の上に視線を戻した。
 光の加減か、俯いたその表情が少し翳ったように見えた。僕はそれを視界の隅にとらえるや否や、恐ろしくなって逃げるように寮の部屋へ戻った。

 何故なのかはその時の自分にはよく分からなかった。