願わくばどうか、いつまでも


ジェームズは言った。箒って素晴らしいよね!と。
私はジェームズにしがみ付きながら小さな声で言った。えぇ、少なくとも私にとっては素晴らしいわ、と。
軽く皮肉を込めたつもりが、ジェームズはにししと笑って更にスピードを上げた。景色なんて見られないほど余裕がなかったけれど、満天の星空は拝む事ができた。夜空いっぱいに広がった暗いキャンバスに、まばゆいばかりの光る星達が散りばめられ、雲など少しもなく、大きな月が湖面に静かに影を落としている。ジェームズの箒はスピードを落とさず、キラキラと輝く星の下をビュンビュン飛ばしていて、先生に見つかるんじゃないだろうかとか、あぁ、ここから落ちたら大イカは岸まで送ってくれるかな、なんてことを考える暇もなく、目まぐるしく世界は変わっていった。
ただ、永遠というものがあるのならどうか、私をここから連れ出さないで、と願った。生まれて初めての体験にドギマギしながらも、破裂しそうな心を抑えて、私は静かに祈った。

神様どうか、こんな素晴らしい日々が、いつまでも続きますように――。




「かおり、ちょっと辞書取ってくれない?そうそれ」
はいどうぞ、と手渡すと、ジェームズはにこりと笑ってありがとう、と囁いた。『囁いた』の訳はここが図書室だからでもあるし、加えるとするならば近くにマダム・ピンスがいるからでもある。先ほどシリウスがリーマスに大声で怒鳴ってマダム・ピンスに追い出されたので、気の立っているマダムをこれ以上怒らせない方が身のため、と察知しての事だろう。ジェームズは明日までに提出しなければならない魔法史のレポートを必死で仕上げている途中で(普段滅多に勉強している素振りを見せない彼だが、今回はさすがにギリギリなのかも知れない)、リリーは今は新たに読む本を探しに書棚へと向かっていた。
リーマスはと言えば『決定版!魔法薬学が苦手な人の為のバイブル』をのんびりと読んでいる(リーマスは魔法薬学が得意では無いみたいだが、少なくとも私よりは出来る)。

(私達までマダムに追い出されなくて良かった)

その理由としてあげられそうなのは、まず第一にシリウス以外の図書室にいる全ての人物がシリウスを白い目で見ていたから。第二に、マダムはリリーが気に入っていたからだ、ということ(リリーは図書室に来てまだ一度もマダムに注意をされたことがない、これは常日頃図書室に通っている生徒としては快挙である)。だから私達まで追い出すような手荒なまねはしなかったのだ。どっちにしろ一番害があったのはシリウスなのだし、今頃シリウスが談話室でぶつくさ文句を一人で言っているとしても、悪いなと思う気持ちなど微塵も出てこない。談話室にはシリウス目当ての可愛い女の子がたっぷり居るだろうから。

気持ちの良い風が、図書室の開け放たれた窓から入ってくる。季節はもうすぐ夏で、この頃は雨が減って日差しも暖かみを増してきたように感じる。ふと窓の外を見ると、クィディッチ競技場でハッフルパフが練習をしているのがちらりと見えた。この天気の良い日は外は暑いだろうな、と想像しながらかおりは書いていた手紙に目を戻し、最後に付け加えようと思っていた言葉を書きながら知らず知らずの内に声に出してしまっていた。

「…納豆送ってくれると嬉しいな。かおりより……よしっ」
「ナットウ?…ナットウって、あの日本人の食べるネバネバしたやつ?」

私が知らず知らずに発した言葉に、リーマスがピクリと反応して言った。彼は少し嫌な顔をしている。多分どこからか、納豆は嫌な臭いだとでも聞いたのだろう。失敬な。

「あの匂いがたまらなく故郷を思い出させてくれるの!」私が反論すると、
「へぇ…今度僕も食べてみたいな」思いがけずリーマスは食べたそうに目を細めた。
「いいよ!送って来てもらったらリーマスにもあげる」
「ほんと?…あ、でも日本からイギリスじゃ、遠すぎて腐るかもしれないね」
「大丈夫よ、もう腐ってるもの」
「……?」

私の言葉に、リーマスは不思議そうに小首を傾げた。あぁ、なんて楽しいんだろう。リーマスの知らない事を私が知っているというのは、まぁいわゆる優越感というやつだがとても気持ちがいいものだ。リーマスにはいつも無知ぶりを乾いた笑みで嘲られているから、今度はこっちの番だ!と息巻いてさぁ笑おうとしたとき、隣でジェームズが言った。

「納豆って言うのはね、大豆を納豆菌で発酵させて作ってあるんだよ」
「よ、良く知ってるね…?」
「ジェームズ、さては前もって勉強してたね?」
「当たり」

ジェームズは、今持っている本の真ん中ほどのページの、上部分を指差して言った。英語で、〔アジアの食文化と解毒的効用について〕と題がついている。納豆って解毒的作用あったっけ?と悶々と考えている私を見て、心を読めるのかどうか知らないがジェームズが笑って言った。

「こういうのもあるって、紹介だけだよ」
「なんだ。じゃあ副作用とか無いのね?(だって解毒って…!)」
「いや、そこ論じるポイントじゃないと思うけど」リーマスが冷静に言って、ジェームズがはは、と笑った。
「まぁ、それは置いておいて、納豆というのは僕も一度食べてみたいな」
「OK、分かった」

私はそう言って、羊皮紙に「たくさん送ってね!(納豆)」と付け加えた。母はこれを見たときどういう反応をするだろう。きっと笑ってたくさん送ってくれるな、うんそうだ多分絶対そうだ、と思って内心ニヤリとして、かおりはリーマスをもう一度ちらりと見た。彼は満足そうに私に微笑んで、また読んでいた本に視線を戻した。ジェームズはと言えば、先ほどの本をパタリと閉じてまた別の新しい本を読んでいる。レポートは間に合いそうなのだろうか?

ジェームズから視線を外して、何か面白いものはないかなと周りを見回していると、リリーが嬉しそうな顔をしてこちらへ向かってくるのが見えた。相変わらず、両腕に重そうな本をたくさん抱えて、よたよたとしている。彼女は多少おぼつかない足取りでこちらへ来て、私ににっこり笑いかけた(そして相変わらずの綺麗な笑顔だ。私はリリーの笑顔が入学して来た時から大好きだった!)。

「聞いて!さっきね、とっても面白そうな本を見つけたの…」そういって席に着きながら、自分の持っている大量の本の中から一冊を抜き出し、私に差し出した。かおりは元から本になど興味がなかったが、リリーの大層ご満悦な顔を見て引くに引けず、ついついその本を手にとって表紙を見ていた。なんだかいつもこのペースだ。悪くは無いけれど、日本人である私のペースとこの根っからのブリティッシュのペースとは少々相違が生じている事に、この可憐な少女は気付いているのだろうか。否、気付いてないな。私はリリーのにこにことした表情を見ながら悟った。

「これは……『杖の大全集』?」
「えぇ!私達の使っている杖もきっと載っているわよ」

面白そうでしょう?(興味深そうでしょう?)と私の顔を覗き込むリリーは、にこりともしていない私の表情を見て一瞬不安げな顔つきになった。私は慌てて「面白そうね!」と取り繕ったが時既に遅く、リリーは少し悲しそうな表情をしていた。私は助けを求めるように同じテーブルについている2人の顔を見た。こんな非常事態だというのにリーマスは暢気に本を読んだままだし(きっと全て聞こえている)、ジェームズはリリーの喋る事にいちいち耳をピクリとさせるだけで会話に入ってこようとはしなかった。多分不用意にリリーに話しかけても冷たくあしらわれる事が分かっているのだろう、それが分かっただけでも大した成長だ、と私は勝手に納得してまたリリーの方へ向き直った。

「一緒に読みましょうか、リリー」「ほんと!」

(リリーは泣いてはいないが)今泣いた、という感じである。パッと顔を明るくして、リリーは『杖の大全集』を捲り始めた。マダム・ピンスに聞こえるといけないので、小声でこそこそと喋りながら私とリリーは休日の午前中を図書室で『杖の大全集』を読んで過ごした。私の使っている杖は載っていなかった。

もし、もしもたった一つだけ願いを叶えてあげると誰かに言われたら、私は間違いなく時を止めてくれと頼むだろう。