部屋の明かりをかちゃりと消して、は自分のベッドにもぐりこんだ。
カーテンの隙間から漏れる淡い月の光をうとうとと眺め、そうしてふと思い出す。
「そういえば、私の赤ちゃん杖をいったいどこにやったかしら?」
(もしかしたら、昼間遊んでいた場所に置きっぱなしかもしれないわ)そう思いだしたとたん、の瞼がぱちりと開いて、彼女はパジャマのまま部屋を慌てて飛び出した。階段をどたどたと駆け下りて、それから両親に咎められるかもしれないと思いつき、忍び足で玄関に向かう。
杖と言っても、本物の杖の話ではない。の本物の杖は来年、魔法学校に入学する前に買い与えられる予定で、彼女が遊び場に置き去りにしたのは、この時代大人気となった子供用の「おもちゃ杖」だった。
の父などは「赤ちゃんだけが使う『赤ちゃん杖』だな」などとをからかったが、はそんなのちっとも気にしなかったし、「赤ちゃん杖」というあだ名も好んで使っていた。なんだかとってもキュートだと思ったのだ。
さて、は家の玄関を開けて、思いがけず外が暗いことに驚いて足を止めた。十歳の健康的な女の子であるは、自分の眠くなる時間帯に外に出たことなどなかったので、これは全く当たり前のことだった。
星のきらきら光る夜空を見上げ、それから自分のわずかばかりの影を見下ろす。どこかでフクロウが(おそらくはの家で飼っているフクロウが)鳴く声が聞こえて、遅れての胸に好奇心がむくむくと沸き上がった。飛び跳ねるように自宅前の小さな階段を降りて、昼間とはひどく変わって見える家の前庭を見渡す。(とっても素敵だわ)とは目を輝かせてひとりごちた。
の家の前には、家と近くの森に挟まれるように、広い庭が広がっている。庭には小さな水たまりのような池もあって、そのちゃちな池をの母はいつも埋め立てたがっていたものだが、夜の薄闇の下にある池は全く別物のようだった。背景に森が見えているのもあって、まるで森の中に一つぽつんと存在する、人魚のいるミステリアスな湖のようである。
(まあ、夜がこんなにきれいだなんて知らなかったわ!)
はこの光景を友人にも見せてあげたいと思った。すぐそばの森の中には一軒の家があって、そこにはと同い年の子どももいるのだ。けれどもはすぐに思い直した。彼女の友人はほんのちょっとした問題を抱えていて、そのせいで夜や―――月、といったもののことが、あまり好きではなかった。
それでもは、その変わった友人とは違って夜も月も好きだったので、さくり、さくりと芝生を踏み、周りを見渡しながらゆっくりと庭を歩き始めた。その途中、昼間に友人と箒に乗って遊んだ木陰にの「赤ちゃん杖」がきらりと光って見えたが、彼女は一瞬足を止めただけで、再び池に向かって歩き出した。
風に揺れる水面に、丸く明るい月が揺れている。(満月かしら)と頭上を見上げて、はそうでなかったことに気が付いた。
月はほんのすこうし、歪に欠けている。「来週の月曜日は薬草の採集に最適な満月となるでしょう」と今朝の日刊予言者新聞で天気予言士が言っていた。つまり、少なくとも今夜はまだ、の友人は自分の部屋で痛い思いをしていないということだ。
池に映る月をもっと近くで見たくて、はまた一歩足を進めた。そうして急に立ち止まる。
池のそば、月光のあたらない森の木陰に、小さな黒い影がある。それが足を抱えた一人の少年だと気が付いて、は驚いて声を掛けた。
「リーマス」
の幼馴染の少年は驚く様子もなかった―――もちろん、そうだろう。は足音を押し殺してなどいなかったから、彼女が玄関を出てくる時から、彼は彼女に気づいていたに違いない―――けれど、それならなぜ、彼は彼女に声を掛けなかったのだろう?
リーマスはの方を見上げて、小さく「やあ」と返した。は彼に近づこうとしたが、ふと思い出して自分の「赤ちゃん杖」へと駆け寄り、今度こそ忘れないように杖を拾って胸元に抱え込むと、ようやくリーマスの方へと早足に向かった。
「びっくりしたわ。リーマス、あなた、どうしてここにいるの? 私、あなたはもう寝ちゃってるに違いないって思ったわ―――だって、こんな時間だし、それに明日は、あなたの大切な……」
「もちろん、僕だって忘れちゃいないよ」
はリーマスの隣に座り込んだ。近づいてみると、彼はわずかな池からの反射光で、幾分やつれて青白く見えた。けれどもそれは、彼の「持病」を知っていて、おまけに昼間にも一度顔を合わせているには別段驚くほどのことではない。
リーマスは満月が近づくと、いつだって奇妙にやつれ、少々衰弱して見えた。
彼が満月の夜、つまり、いわゆる―――「変身」を、してしまうのだということは、ご近所さんであるも数年前から知っていた。しかしそのこととは別に、彼が月の変化に合わせて具合を悪くすることに、はまだなんとなくピンと来ていなかったりなどする(「だって、狼になるのだったら、満月が近づくにつれて元気良くなりそうなものじゃない?」)。
五歳のころに人狼に噛まれ、それと同じものになってしまったリーマス。けれどもは、彼がの近所に越してきた理由がそれであると考えると、その悪い人狼にちょっとだけ感謝をしたい気持ちになる。
「覚えているとも。明日は大切な―――僕がホグワーツ魔法魔術学校に入学できるかどうかを審査してもらう、大事な日だってね。心配しないでよ、。家には遅くならないうちに帰るから」
リーマスの声は、いっそが怪しく感じるほどに穏やかだった。せめてそこに眠気であったり、うるさいに対する苛立ちなどが聞き取れれば、これほど彼女は怪訝に感じなかっただろう。
は体ごとリーマスの方を向いて、顔をずいとリーマスの方に近づけた。驚いたように彼が後ずさると、木の枝から漏れた月光が、ちらとリーマスの顔を照らし出す。は眉を上げて、「まあ!」と大きな声を出した。
「おかしいわ。リーマスったら、どうしてそんな顔をしているの? まるで、明日がちっとも楽しみじゃないみたいだわ―――せっかくあのホグワーツに、入学より一年も早く見に行けるチャンスだっていうのに!」
慌ててリーマスはぱちんと自分の顔を片手で押さえたが、は彼の曇った表情を見逃したりはしなかった。まるで彼が何かものすごくいけないことをしてしまったかのような剣幕で、ぷりぷりと彼に詰め寄る。
「ママの言ってた、動く階段や、お茶目な絵画や、おひげが五フィートもある先生に会えるのよ? 森には巨人みたいに大きな優しい森番さんが、ユニコーンやニフラーの世話をしているんですって―――私が代わりに行きたいくらいなのに!」
「喜んで君に代わってもらいたいよ。明日ホグワーツに行くのも、ついでに人狼であることもね! 正直に言うと、僕は明日がちっとも楽しみじゃないんだ―――憂鬱で眠れないくらいなんだよ!」
吐き出すように言われたその言葉に、は一瞬きょとんとして、それから半ば浮かせていたお尻をすとんと芝生の上に落とした。
「……憂鬱なの?」小さなまりが転がるように、は疑問をつぶやいた。
「でも、そんな―――いったいどうして? だって、リーマス、あんなにホグワーツに入学したがってたじゃない。だからあなたのパパに一生懸命頼み込んで、ホグワーツの先生とお話しする機会を用意してもらったんでしょう?」
困惑するからぷいと顔を背けて、リーマスは返事をした。
「そうだよ。でも僕は今、後悔すらしてるんだ。こんなお願いしなきゃよかったって」
「リーマス!」
は引きつった声を上げた。リーマスの細い腕をつかもうとして、そこに巻かれた包帯を見て手を止める。それからはゆっくりと、リーマスの手を両手で包むように握りしめた。
ぎゅう、と握ると、リーマスのじわりとした体温が伝わってくる。
「それじゃあ、リーマスは、もうホグワーツに入学したくなくなっちゃったっていうの……? 魔法の呪文にも、クィディッチにも、もう興味はなくなったっていうの……?」
「まさか! そんなはずないよ!」
リーマスは勢いよくを振り向いた。そうして、しょんぼりと分かりやすく元気をなくしたの表情に目を瞬かせると、抱えていた足を崩して座りなおした。
につかまれた手を握り返す。
「それじゃあ、どうしてなの、リーマス?」
「だって―――結果なんて、わかりきっているんだもの。楽しみになんて出来っこないじゃないか」
は意味が分からず、顔を上げた。リーマスはそっぽこそ向いてはいなかったが、再びうつむいて地面をじっと見つめている。はつないだ手をくいくいと引いてみたが、リーマスはちらりとも顔を上げなかった。
「意味が分からないわ。入学が決まることの、何が憂鬱なの?」
「逆だよ、。入学なんてできるわけがないんだ。だって、僕は人狼なんだもの!―――ああ、君の言いたいことは理解できるよ。『人狼のどこがいけないの?』って、そう聞きたいんだろう? でもね、君や、君の家族とは違って、世間はそんな風に見てやくれないんだ。人狼は、怖くて、危険なもの。そしてそれは正しい見方なんだ」
「まあ!」
は憤慨したように声を上げた。けれどもそれは、世間の人狼に対する厳しい意見に対するものではなかった。
「ひどいわ、リーマス―――それじゃあまるで、私の家族がとびっきりの変わり者みたいだわ!」
「ええっ?」
思いがけない言葉に、リーマスはすっとんきょうな声を上げた。そして、くすくすと笑いだす。
は、まるで自分の言葉が的外れだと言われたようで頬を膨らませたが、けれどもこの憂鬱そうなリーマスが、自分の言葉に少しでも笑ってくれたのだと気が付いて、すぐに機嫌を直した。リーマスと一緒にくすくすと笑い始める。
「変わり者だなんて―――そりゃあ、もちろんそうだよ。人狼と喜んで遊ぶ子どもも、遊ばせる親も、変わり者じゃなかったらいったい何だっていうの?」
「もう、リーマスったら、本当にひどいわよ!」
「でも、君たちが変わり者じゃなかったら、僕の親は君と僕が遊ぶことを許してくれなかったに違いないんだ。だからね、僕は君たちがとびっきりの変わり者で、本当によかったって思ってるんだ」
まあ、とは声を漏らしたが、今度のそれは憤慨ではなかった。はそのあと、しばらく何も言わずに黙っていたが、やがてリーマスの手を片手でつなぎなおして、視線をリーマスから目の前の池に移した。
水面の月には、風に流されてきたらしい、木の葉が一枚重なっていた。
「それじゃあ―――やっぱり、一緒にホグワーツに行きましょうよ。私だけがホグワーツに行っちゃったら、リーマスは寂しくなっちゃうわ。私みたいな変わり者の子どもなんて、イギリスにはそうそう居ないわよ」
「そりゃあ、僕だって行きたいよ。でも無理だ。入学なんて出来っこない。父さんにも母さんにも、期待だけさせて、またガッカリさせるのがおちなんだ―――ああ、明日なんてこなきゃいいのに」
には、リーマスがどうしてそんなに不安がっているのか、さっぱりわからなかった。リーマスのような真面目で頭の良い子どもを、入学させない学校などあるのだろうか(それよりはいっそ、の入学が拒否されることの方があり得そうに思われた―――主に、頭の出来の面で)。
けれども、にも一つだけわかることがあった。それは、このようになってしまったリーマスは、なかなか意見を変えないだろうということだ。リーマスは時に、の倍も強情になるのだ。
はリーマスの顔を上げさせようと、再度彼の手を引っ張ったが、やはり彼はうつむいたまま、その肩を震わせただけだった。
「ねえ、リーマス。どうしてそんな風に言うの? ホグワーツの先生がどんな決定をするかなんて、私たちにはわからないことだわ。落ち込んだまま先生とお話ししたって良くないでしょうし、元気を出さなきゃ」
「元気を出したら僕が人狼じゃなくなるっていうの? それなら僕はいくらだって元気になるけどね―――ねえ、僕が危険な人狼だってことは、僕が一番わかってるんだ。今は小さな子犬だけど、あと数年も経ったら? 僕がほかの生徒を傷つけでもしたら、学校は責任をとれると思う?」
「傷つけたりなんて」
とは言いかけて、リーマスが懐から取り出したものを見て、言葉を止めた。それはとおそろいの赤ちゃん杖だ―――しかし、それはもうおもちゃ杖としての機能はないに違いない。
リーマスの杖は真ん中から裂けるようにして、真っ二つに折れていた。のような普通の十歳児の力では、いくらおもちゃの杖とはいえ、このような姿にはできないだろう。普通の十歳児の力では。
不意には、リーマスがしばらく前から、自分の赤ちゃん杖を遊び場に持ってこなくなっていたことを思い出した。
(……前の満月の、ときだったのかしら)
は、満月の晩のリーマスがどんな状態なのかを知らない。人間としての意識がないのだと、リーマスは言うが、それがどれほどのものなのか、全く想像もできなかった。自分の大切な赤ちゃん杖を折ってしまうほどなのだろうか。
急に―――は理解した。リーマスがどうして頑なに顔を上げようとしないのか。と顔を合わせたくないわけではなかった。リーマスはただ、池の水面に映った月を見たくなかったのだ。
単なる月の鏡像に、リーマスは怯えていたのだ。
「リーマス」
は思わずリーマスの名前を呼んでいた。それから続けるべき言葉を考えていなかったことに気が付いて、一拍おき、それからもう一度「……リーマス」と口にする。
「水面の月も、明日も、ちっとも怖くなんてないわ」
月、という単語に、リーマスはかすかにふるえたようだった。は彼の手を強く握りなおし、「怖いものなんかじゃないのよ」と言い聞かせるように言う。
「ねえ、リーマス、想像してみて……。目を閉じて、明日のことを想像するのよ。
もしかしたら、明日は気持ちよく晴れるかもしれないわ。外では鳥がチイチイ鳴いて、窓辺から指す日光があなたを起こしてくれるかもしれないわ。森の木々は光を浴びて、きらきら葉っぱを輝かせているに違いないし、芝生の上を歩けばしゃくしゃくと音が鳴って、すっごくすがすがしいのよ」
最初こそリーマスは、(この子はいったい何を言い出したんだろう?)という顔をしてを見つめていたが、やがて彼女の言葉に従ってみることにしたらしく、おとなしく目を閉じた。
しばらくの声を聞きていたリーマスは、目をつぶったままゆっくりと笑みを浮かべる。
「うん。……いいね。素敵な想像だよ」
「そうでしょう? でも、まだまだよ。もっともっと想像してみて。
もしかしたら―――そうね、明日は雨が降るかもしれないわ。日刊予言者新聞が、そんなことを書いていたような気がするもの。でも、そうなったってやっぱり素敵だわ。雨が屋根を打つ音を覚えてる? トオ、トト、トタン。トトトト、トタン。それに、なによりアジサイが一番輝くのは雨に打たれているときよね。葉っぱや花が露に濡れて、宝石みたいに光っているの! それから、雨が降った後の地面のにおいも忘れちゃいけないわ。私、あれが大好きなの……」
リーマスは何も言わなかった。ただ、の言葉を聞いた途端、ここしばらく嗅いでいなかった雨のにおいを思い出して、リーマスはほんの少し幸せな気分になった。リーマスもまたと同じで、その匂いが嫌いじゃなかった。
「想像はまだ終わらないわよ。もしかしたら―――明日の朝食は、シナモンのたっぷりかかったライス・プディングかもしれないわ。それか、干しブドウのたっぷり入ったシリアルかも。この日は、シュガーを三杯までかけてもママに怒られないんだわ―――きっとね! それに、明日は珍しく、靴紐が綺麗に結べるかもしれないわ。靴下だって、いつもはすぐに下がってきちゃうのに、明日はどれだけ歩いてもぴんと張ったままなのよ。
それになにより、ホグワーツよ! きっと面白いものがたくさんあるに違いないわ。ああ、私もリーマスと一緒にホグワーツに遊びに行けたらいいのに!」
最後には、想像ではない、ただの要求へと変わっているの話に、リーマスはまたくすくすと笑った。は言葉を止めて、それからリーマスが笑っているというだけでこの上なくうれしいとでもいうように、幸せそうににっこりと笑う。リーマスは目を開けて、を見た。
「……不思議だな。なんだか、の話を聞いていると、明日がとっても素敵な日に思えてくるよ」
「不思議なんかじゃないわ。本当のことよ」
はリーマスの手を引いた。一瞬だけ躊躇して、リーマスは静かに視線を水面へとむける。
揺れる月に重なっていた木の葉は、すでに流れていったと見えて、今の月影を隠すものは何もなかった。ぎこちない表情で水面を見つめるリーマスの手を、は柔らかく握る。
「月じゃないわ。ただの影」
「……うん」
「とっても綺麗だわ。ねえ、ちっとも怖くないでしょう?」
リーマスはすぐには返事をしなかった。一呼吸を置いて、それから、「そう、かも、しれない」と小さな声でつぶやく。は楽しそうに笑った。
「ねえ、リーマス。きっと明日はいい日になるわ。今日より増していい日になって、きっと気分がわくわくするような出来事が、いくつもあなたに訪れるのよ。
何にも心配いらないわ。全部がちゃんとうまくいく。今から怖がる必要なんてちっともないんだわ!」
リーマスは笑った。「そうかもしれない」その声は、先ほどよりいくらか力強くなったようだった。は彼の顔に手を伸ばして、月光の当たらないその頬や、あごの小さな傷跡を、なぞるようにして優しくなでた。
きっと明日はいい日になるわ。繰り返されたその言葉に、リーマスは微笑んで、ゆっくりとうなずいた
ブルームーンの鏡像
テーマ:影
2016/06/25 羽山