リナリアの咲く庭
お休み、また明日ね、と目を擦りながら階段を上っていく後姿を、これで何人分見送っただろうか。とうとう最後の一組になってしまった。 こんなに最後の方まで談話室に居残っているのは初めてだ。いつも少しばかり狭く感じていたこの部屋も、実はゆったりした空間設計がされていたのだと気づかされる。あの、休日の誰もいない学校が空っぽで寂しい感覚と似ている。 頑張って、と笑いながら側にいてくれた親友のリリーが階段を上る後ろ姿に手を振りながら、私は心侘しい気持ちがさらに増すのを感じた。ただでさえ、暗い夜に一人きりで眠るのは怖いのに、この薄暗く広い部屋に一人――いや、二人っきりだなんて。 「もう明日にしようよ、リーマス」 隣でソファに凭れて参考書を捲っている“先生”を振りむいて、私は言った。彼はせめて私を褒めるべきだと思う。終わりにしようと言い掛けるのは、今日はこれが初めてなのだ。 「まだこのページまで行ってないよ」 参考書の耳を折ったページをとんとんと指で叩いて、彼は呆れ顔で言い放った。 これだ。この「まったくもう、ちっとも成長しないなあ」という表情が、私は実は、とても気に入っている。彼本人にそれを告げる気は毛頭ないのだけれど。 多分、今まで付き合ってきた時間の長さとか、その分だけ磨かれた他の人に対する以上の親しみを、その彼の表情が語っている気がするからだろう。 叱られているのに喜んでいる自分がなんだかおかしくて、私の口の端は自然に持ちあがった。 「ここまでやっておかないと、明日困るのは君だよ、」 「うん……」 ちょっと笑っている顔を見られないよう、またテーブルに向き直ってペンを握った。何をニヤニヤしているのかと気味悪がられたら嫌だから。 確かに、彼が示した箇所まで今晩中に終わらせていなければ、明日のランチを抜いて取りかかったとしても間に合わないだろう。魔法生物飼育学の教授は締め切りにうるさい。その割に授業時間が間延びすることがままあるので、生徒はぶうぶう文句を言っている。 ところで、名誉のためにちょっと弁明すると、私はいつもこんなにぎりぎりまで課題をため込んだりはしない。今回は、レポートの範囲を大幅に間違えていたのが原因なのだ。 「水中の生き物だと思っていたら、空中だったのよねえ」 「何回も聞いたよ、それ。というか、授業を真面目に受けていれば、範囲が違うのなんて気づけたと思うんだけど」 「仰る通り。……あ、ねえここの参考資料は?」 「ん、どれ?」 私は教科書を指差して、斜め後方を振り返った。 そして彼も同時に、私が指している教科書を覗き込もうと、ソファから身を乗り出した。 「!」 ――時が、止まった。……ように、私には思えた。 鼻同士がぶつかるのではないか、と思うくらいの距離で、私は驚きのあまり一瞬硬直した。 彼の頬のかさぶたも、睫毛も、驚いたように少し開いた口も。何もかもが、虫眼鏡で見るよりもずっと鮮明に見えたのだ。 「うわっ、あ」 ワンテンポ遅れて慌てて身を引くと、リーマスは軽く目を細めて、なんと、そのまま同じだけ距離を詰めてきた。 「な、なに……!?」 「……今から質問するから、イエスかノーで答えてくれるかい?」 「え、う、うん。分かるかなあ」 大真面目な顔のリーマスが、至近距離でそんなことを言うので、私はてっきりレポート範囲の問題でも出されるのかと、教科書の方にちらりと視線を逸らしながら返事をしていた。まだ範囲は半分ほどしか終わっていないし、内容の理解というよりも課題の提出を優先していることもあって、自信はまったくないのだけれど。 私の困り顔がおかしかったのか、ふっと気が緩んだように笑ったリーマスは、「じゃあ質問、いくよ」と肩に垂れた私の髪に触れて言った。 「は、僕のことが好き?」 え、という口のまま再び固まった私を見て、リーマスは「おーい」と目の前でひらひらと手を振った。いやいや、そんな驚いた顔をされても、びっくりしているのはこちらなんですけど――って。 「ええっ!?」 「なんだ、違うんだ。残念」 そう言って、彼はおどけたような表情で、近づけていた身体をスイと離した。 そのまま膝に置いていた参考書をペラペラ捲り始めたリーマスを、私はしばらく呆然と見つめていた。頭の中の肝心なところがまだ固まっているせいか、どうしてそんなことを尋ねるのかとか、果たしてイエスなのかノーなのかとか、重大なことは何一つ考えられなかった。 何せ生まれてこの方、恋というものを経験したことがないのだ。 ただ、ドキドキしていて、顔がとてつもなく熱かった。へたをしたら、箒から落ちそうになってクラスの全員から笑われた時よりも、赤い顔をしているかもしれない。 どうしよう。どうしよう。 「なんてね、赤い顔してるから、からかっただけ……え、?」 参考書から目を上げたリーマスと目が合った瞬間、彼はぎょっとしたように目を見開いた。 「……ごめん、僕が馬鹿なこと言ったから?」 「へ?」 「泣きそうな顔してる」 変なこと聞いて本当にごめん、反省してるよ、と私の頭をぽんぽんと叩く彼に、また心拍数が上がって。 ああそうか、とその時気づいた。 顔が熱いのは、彼に見つめられているから。 泣き出しそうな気持ちになるのは、彼が離れて行ってしまうから。 ほかの何も考えられなくなるのは、彼が私に触れているから。 心の中の固まっていた部分が溶けてほぐれていくのを感じながら、私は頭に置かれたままのリーマスの手を両手で彼の胸の前まで持っていった。 首を傾げてされるがままにしているリーマスは、しかし黙って私の言葉を待っている。 「リーマス」 「……何だい?」 「私も、質問していい?」 「何なりと」 「さっきのは、ただの意地悪?」 我ながら絞り出すような掠れた声が出たけれど、彼は笑わずに私の言葉を受け止めてくれた。 そして少し微笑み、静かな声で、彼は答えた。 「……もし君がイエスって言ってくれたら、キスする口実にしようと思ってた」 どうしよう。やっぱり、イエスとは言えない。 だって、これ以上近づいたら、息もできなくなりそうだ。 テーマ:リナリアの花ことば“この恋に気づいて”
13.10.8 まな子 |